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0.

 

今日はもう来ないんじゃないか、と眠い目を擦りながらマシューはそう口にした。直後に欠伸を噛み殺し、窓枠にかじりついている俺を困った風に見上げてくる。

そんなに眠いならベッドへ行けばいいのに。

一縷の望みをかけて待っているのは彼も同じだったろうに、小さなことで苛つきながら窓の外を睨みつける。等に真夜中、ただでさえ暗い空はどんよりと曇っていて、降りしきる雨は窓を打ち付けて揺らした。

 

それでも、待っていた。

 

雨が止んで、やがてあの人が庭先で傘を閉じて。遠慮がちに扉を開き、まだ起きている俺たちに目を丸くした後、呆れたように叱ってくれるはずだから。

段々目蓋が落ちてきて、がくんと首が落ちて窓へぶつかる。額の痛みを擦ることで緩和しようと撫でるけど中々退いてくれなかった。背後でマシューの寝息が聞こえ出す。ソファにこてんと丸くなって、お気に入りの白熊の縫いぐるみを抱えて今頃は夢の中だろう。

俺は負けないぞ。だってもう中学生なんだ、夜更かしくらいどうってことない。

そうやって気持ちを奮い立たせ、またじっと外を見つめた。

いつまでも、そうやって待っていた。

 

精一杯に目を凝らし、背筋を伸ばして。

 

逸らさずに、ずっと……。

1.

 

懐柔されたわけじゃない。これは所謂敵情視察、と誰とはなしに懐中で繰り返しながら、アルフレッドは自家用車を降りた。場所はコンサートが開かれるドームで、目立つ金髪をフードで隠して辺りを見回す。アイドルのコンサートだけあって会場前や物販の列にも女性客が多くみられた。思ったよりちらほらと男性もいるようだが、大抵はカップルの片割れだろうと踏む。

……マシューも、確実に紛れているはずだ。彼は人より存在感が希薄なことを気にしている節があるが、その分人を見つけるのが上手い。此処で会ったらどうしようか……否、どうするも何も、後ろめたいことなど何もない。アルフレッドがいっそ開き直ったところで、ポケットに突っ込んだままの携帯電話が震えた。着信を確認し、そこに表示された『フランシス』の名前に首を傾げる。もちろん家の繋がりで面識はあるし、それなりに交流もあるがこのタイミングで何事だろう。嫌な予感を感じつつ応答ボタンを押し、耳に当てる。

聞こえてきたのは、『もしもし』という呼応。即座にフランシスではないことが分かり、益々不審感が募る。

「突然すみません、本田です。あの、急ぎでお聞きしたいことがあるのですが」

「……君か。何かトラブルでも?」

「単刀直入に言います。……アーサーさんが、いなくなりました」

それを耳にした途端、アルフレッドの心中は濁った。やはり、という諦念がアルフレッドを蝕む。きっとコンサート前になって自分に負け、逃げ出したに違いない。今いる居場所さえ裏切って、あの人は……。

「ふぅん、逃げ出したんだ。彼はどうせそういう人だったってこ、」

「違います。どうか彼を侮らないでほしい」

大人しい人柄のように見えたが、存外強い言葉に驚く。きっぱりとした声が受話器越しに伝わり、アルフレッドは携帯を手にしていないもう片方を拳にしてグッと握りこんだ。

「アーサーさんは、こちらに向かう最中に何者かに連れ去られました」

「え……?」

あまりのことに、二の句が継げなくなる。連れ去られた? 脳内で反芻するのがやっとで、息を呑んだ。どうして。

「恐らく犯人はアーサーさんに因縁をつけている相手です……何か思い当たる節があれば教えていただけませんか、とにかく一刻も早く助けだしたいんです」

丁寧な口調こそすれ、切羽詰まっている状況であることは気配から読み取れる。アルフレッドは顳顬を押さえ、考え込む姿勢のまま暫く返事が出来なかった。深呼吸を一つして、出来るだけ冷静に話す。

「ごめん、直ぐには出てこない……けど、俺にも協力させてほしい。……アーサーのこと、軽んじて悪かったよ。おかしかったのは俺の方だ」

「……その言葉だけでも充分です。今どちらに?」

「ホールの前だよ」

「関係者には話をしておきます、裏口から入って来てください」

了解、と返して電話を切る。走り出しながら頭に浮かび上がってきたのは、いつかのドラマ撮影の日だ。イヴァンとアーサーが話し込んでいたその背後、不審な男を見た気がする。何度か見かけたことがあったから、スタッフだろうと見過ごしていたのだがやはり変だった。即座にまた携帯のアドレス帳を開き、ある人物をタップする。何度かのコール音の後、電子を通してさえ柔らかくも不敵な印象を人に与える男の声が応じた。

「……アルフレッド君? 珍しいね、どうかしたの」

 

 

電話を貸してくれないか、と菊が頼み込んだ時、フランシスは意外そうな顔をして渡してくれた。お礼と共に返すと、さすがに茶化す余裕はないのかそっと菊の肩を叩いて全員が集まっている場所へ戻っていった。読まれていたのだろう、と思う。菊が、少なからずアルフレッドを疑っていたことを。だから始めわざと不穏な言い回しをして、余計にアルフレッドの内心を煽ってしまった。我がことながら性根が悪い……自己嫌悪が頭をもたげ、そんな場合ではないと思考を切り替える。あの様子ではアルフレッドがアーサーを無理矢理連行した可能性はまずあり得ない。次に自分がすべきは何だろうかと頭を回転させながら菊も集合場所へ向かう。

「……コンサートを成功させたいのはそうだが、第一にアーサー優先だ。絶対に五体満足のまま連れ戻す。そうさえすれば、コンサートの再起もどうとでもなるからな」

事務所の関係者や運営スタッフに囲まれた中心でギルベルトが既に会議を始めており、菊も近くに寄る。

「だが、諦めるな。菊とアーサー、それに俺達だってこれまで全力を尽くしてきた。誘拐犯どもの思い通りにはさせねぇ!……そこでだ、場を繋ぐ人員を今呼んであるから、舞台班と救出班に分かれる。いいな?」

「救出班って……警察はどうしたの」

「そのこと何だが」

尋ねるフランシスに、ギルベルトは苦々しさを隠しきれない表情で携帯の液晶を見せてきた。差出人不明のメールが、ギルベルト宛に送られてきたらしい。所謂脅迫メールだ。

「通報したらアーサーの命はないと思え、ね……要求してるのも、身代金じゃなくてカークランド家トップの謝罪……なるほど、どっちを取ってもアイツの未来は危ういわけだ」

メールを淡々と読み上げるフランシスの表情は窺いにくく、正面から見えているのはギルベルトのみだ。菊が声を掛けようとしたその時、慌ただしい足音と共にロヴィーノの声が聞こえてきた。

「おい、アントン! 落ち着けって、どうしたんだよ!?」

乱暴に扉が開き、息を乱したアントーニョが入室した。勢いあまったらしいロヴィーノは床に転がる。その後ろから遅れてフェリシアーノがやって来て、更にはアルフレッドも揃う。

「……ぷはっ、ちくしょー、鼻痛ぇ……!」

起き上がったロヴィーノが鼻をさする。それから顔を上げてアントーニョを見上げる表情には、心配そうな気色が滲んでいた。

「どうした、アントン」

ロヴィーノに代わって尋ねたギルベルトへ視線を向け、アントーニョは青い顔で口を開いた。

「アーサーが拐われたの、俺の所為かもしれん」

突拍子もない発言に見えたが、二人の事情を知る面々はそれで合点がいった。先に口を開いたのはフランシスだ。

「……そうは言っても、会社が絡んでる可能性があるだけでアントンの所為にはならないぜ。責任を感じることじゃない」

「うちの会社ってことは、俺の責任も同義やろ。見覚えのある顔がいる時点で気付くべきやった……」

「そのことだけど」

歯噛みするアントンの後ろから、フードを外したアルフレッドが前に出る。通話のやり取りを側で聞いていたフランシスが既に伝えてあるのか、そこで狼狽えるものはいない。

「彼の読みが当たっていることは確かだよ。不審人物なら俺も見たし、その他にも一人いる。……彼ってカリエド家の人間だろ? おかげでどうにか場所の目星は付きそうだな」

そう言って端末を弄り出したアルフレッドへ全員の視線が集中する。目立つのには慣れているのか、気にした様子もなく操作を続けてアルフレッドは小さな声で何事かを呟く。

「……『見つけた』って、何を」

どうやらそれは早口の英語だったらしく、聞き取ったフランシスがそれを拾う。アルフレッドはさっと顔を上げるとまた口を開いた。

「アーサーだよ。……うん、やっぱり持つべきは権力だね」

さらりと末恐ろしいことを口走り、口の端を引きつらせているフランシスの横をすり抜けアルフレッドは菊へ画面上に表示されたマップを見せた。指揮を執っているギルベルトではなく、アルフレッドが最初にこちらへ確認させたことに少なからず菊は驚く。

「ここの地理には詳しくないんだ。案内してくれるかい」

「……暫しお待ちを」

返答に窮するわけでもなく、菊はそう応えてギルベルトの方へ振り返る。燃える瞳は試すように菊と視線を合わせてきた。

「このステージの主役として、残らなければならないことは理解しています。……その上で、お願いします。アーサーさんの所へ行かせてください」

「……」

もう、時間はそんなに残されていない。躊躇もなぎ払い正直に頼み込む菊へ、不意にギルベルトが拳を振り上げた。突然のことに身体が傾ぎかけたアルフレッドをルートヴィッヒが止める。

ドン、と、重い音が菊の胸板を叩いた。揺らぐことのない強い意志で見上げてくる菊を前に、ギルベルトが満足気に口元に弧を描いた。

「ケセセ、やっぱガッツあるなお前! いいぜ、行ってこいよ。ちゃんと連れて帰れよ」

「はい!」

目の前のやり取りに唖然としているアルフレッドに、ルートヴィッヒがこほんと空咳を一つした。

「あー……兄さん……社長はああいう人なんだ。驚かせてすまない」

ルートヴィッヒの謝罪の反面、ギルベルトへある種の羨望をちらつかせているアルフレッドに気付いて菊はそっと苦笑した。

「……アルフレッドさん。情報提供ありがとうございます、直ぐにでも向かいましょう」

「オーケー、作戦は?」

気を取り直し、早足で出口へ向かう二人を何とはなしに全員が見送る。何してるんだ、というギルベルトの声でやっと我に帰った。

「他に行くやつは?」

「……俺は行く。説得できるとは思ってへんけど……どっちにしろ、責任の一端は握っとるんや」

「な、アントン……?」

扉へ向かうアントーニョに、ロヴィーノが不安を滲ませて名前を呼ぶ。それでアントーニョは口元を緩め、ロヴィーノの頭をぽんと軽く叩くとそれきり二人を追いかけていった。そして、それを眺めていたフランシスの背を、ギルベルトは思いきり足蹴にした。

「痛い!! なに!?」

「オラさっさと行きやがれ元保護者。その陰気なツラでうろつかれても現場の士気が下がるんだよ」

「お兄さんはいつでも陽気ですーッ! アントンの方がキャラ崩壊酷かったでしょうが!」

「今のアイツら任せられる人員がいねぇんだよ! さっさと出てけ!!」

もう一度蹴飛ばされ、フランシスは尻を撫りつつまろび出る。「今出てけっていった!?」という悲痛な声は無視された。

 

「ウウ……ギルってほんと容赦ない……」

若干泣きたくなりながらフランシスが三人を探すと、丁度車に乗り込む最中だった。フランシス自身も車を持っているため二手に分かれる道を考えながら近付く。

「どういう段取りなん?」

さすがに相談はしているのだろう。案外冷静そうで、それ相応の能力を持つ面々であるし早々に片付きそうだとフランシスは安堵する。

「正面突破かな」

「正面突破ですね」

前言撤回、アルフレッドに留まらず菊も存外壊れかけている。

「……ちょっと待った。俺に考えがある」

一度息を吐いて、フランシスは振り向いた三人との距離を詰める。それで少しだけ、肩の重みが軽くなった。ついでに視界まで晴れたのか、周囲が驚くほど良く視え出した。

「……それじゃ、始めよっか」

2.

 

目を開けたら、頬に冷たい感触がした。じわじわと意識が覚醒していく中で、突然襲われたことを思い出す。頬が冷たいのは床がコンクリートだからで、つまり地面に転がされているのだ。室内は暗く、そして寒かった。腕も足も縛られていて時計を確認することもできない。ご丁寧に口まで覆われていて、救援を呼ぶ行為すら望み薄だ。

これで確か二度目だな、と冴えた頭でアーサーは記憶を探る。一度目は、もっと幼い時だった。あの時はどうやって助かったのだったか。大人にもなってこんなトラブルに巻き込まれるだなんて情けない……内心で舌打ちをするアーサーの鼻先に、不意に靴先が見えた。

「……ッ」

気付いたのも束の間、髪の毛を掴まれ引き起こされる。暗闇の所為で顔は見えないが、体格からして男であることに違いはないだろう。キッと睨みつければ男の腕に力がこもった。

「随分と強気だな。状況が分かっていないのか」

「……」

その言葉、そっくりそのまま返してやる。敵意を込め、頭を振って英語で語りかけてきた男の腕から逃れる。直後にまた地面に落ちるが、こっちの方が断然良い。

「ぐぅッ……!」

すると鳩尾を蹴られ、いきなりの鈍痛に身体を丸める。続いて横腹に体重をかけられて骨がミシリと音を立てた。

「……家の連中がお迎えに来るとでも思っているのか? 浅はかだな、アーサー・カークランド」

それを聞いて笑ってやりたくなったのは、むしろアーサーの方だった。よもや、家を頼りにしていると思われてるなんて。迷惑を掛けるだろうが、それでも動いてくれるとしたら事務所だろう。今が何時かは分からないが、出来ればコンサートには間に合いたい、と場違いにも考える。

「ハッ……まだ余裕そうにしてるようだが……これは何だと思う」

「……?」

「クスリだよ。分からないか?」

ふと、暗いはずの室内に光が入り込む。天窓の覆いが捲れて、男が手に持っている針のような何かに反射したのだ。

まさか、という考えが背筋を凍らせ、アーサーは身動きの取れない状態で横飛びした。這いずるように後退するアーサーに、ゆっくりと男が近付いてくる。

「逃げるなよ。刺しにくいだろ」

男の握っているものは、注射器だった。アレに刺されればマズいことくらい誰でも気付く。アーサーの頬に冷や汗が伝った。

「薬物無しじゃ生きられない身体にしてやる。俺たちのようにな!」

「ッッ……!!」

腕を掴まれる前に間一髪で体当たりをし、乱れた息を整えようとするからか呼吸には荒さが増すも逃げ場を探す。次第に眼が闇に慣れ始めても周囲は見えづらいままだ。男は注射器を取り落としたのか、屈みこんで背を向けていた。男からなるべく遠ざかるために必死になって気配を殺す。

「チッ、カークランドめ……! お前らのせいでどれだけ笑い者にされてきたか……この屈辱が分かるか!?」

ガシガシと音が聞こえるほど頭を掻き毟り、男が激昂した。先ほどまでの落ち着きぶりが嘘のように怒鳴り出す。

「金も肩書きも毟り取られ、プライドを踏み躙り! 笑いの的にされる気分がッ!」

片手に注射器を構え、息を潜めるアーサーをいとも容易く見つけると次に男はアーサーの身体に跨った。縛られている片腕の衣服を捲られ、必死に抵抗するも薙ぎ払うことができない。アーサーの頭の中で警鐘が鳴り響く。どうにか言葉にならない悲鳴を上げるが、ここでは誰にも届かない。

「あぁ、思えばお前も可哀想だなぁ……よく聞け、お前を囮にしたのもカークランドのしたことだよ」

ピタリと、アーサーの動きが止まる。あまりのことに愕然とするアーサーを、男が嘲笑う。

「どこかで嗅ぎつけたみたいでね……目障りだったんだろう、俺たちを始末しにきたんだ。だがその情報は俺たちにとって好都合だったよ。奴らが日本にやってくる前に芸能界へ忍び込み、お陰で人質としてお前を拐えた」

男は饒舌に語り、注射針を上向かせ液を垂らす。アーサーの心臓は先ほどから緊張で煩いほど鳴っていた。眼が自然とそこへ吸い寄せられる。

「……盗聴したんだ。その時にお前の名前が挙がっていた。それもそうだろう、あんな目立つ世界にいるお前は格好の的だからな。監視の目を掻い潜って誘拐が成功してしまえばアイツらの作戦も水の泡だよ。……ああ心配するな、奴らが誠意を見せるのならお前も命だけは助かるだろうさ……!」

男が注射器を振り下ろした瞬間、光を失いかけたアーサーの脳裏に浮かんだのは唯一人、最愛の人の姿だった。

 

———まだ俺は、何も伝えていない!!

 

「あぁああああッッ!!!!」

「なっ……!?」

アーサーは渾身の力で抗い、油断していた男が地面に転がる。その瞬間、勢いよく扉が壁に叩きつけられた音がして、室内に光が溢れると同時にアーサーの視界もまた覆われた。

「アーサーさんッ!!」

聞こえてきたのは切羽詰まった相棒……菊の声。ほっとしたのも束の間、転がった男がゆらりと立ち上がった。男もアーサーと同様光に目が慣れないのか、顔を覆いながらにじり寄ってくる。

「よくも……」

ぷつんと、菊のどこかで最後の糸が切れた。拳を固め、目だけが爛々と血走っている男の横顔を勢いよく殴り飛ばす。バキリと歯が折れる音が響きアーサーさえ呆気に取られる。

「……」

その身体のどこにそんな力があるのか、男の胸倉を乱暴に掴んだところで菊の肩を誰かが押さえる。振り放そうとして羽交い締めにされ、菊はようやく我に帰ったようだった。

「気持ちは分かるが落ち着け!」

「……! すみません。ありがとう、ございます」

よく見れば止めたのはフランシスらしく、菊の一時の暴動が止むとほっと息を吐いた。フランシスは菊からパッと腕を離すと、アーサーが倒れている方向に菊の背中を押す。

「先に助けてやって」

「……っ」

自らを悔いるように眉根を寄せて、菊はアーサーに駆け寄る。キツく縛られていた縄の拘束を断ち切り、口元の縛めも解く。やっとまともに話せるようになりアーサーは安堵した。

「助かった……本田?」

「アーサーさん……アーサーさん」

アーサーの手を握り締め、菊は深く俯いた。存在を確かめるようにアーサーを呼んだきり、言葉も出ない様子で黙り込む。犯人を取り押さえるための警備隊が押し入ってきても、菊はずっとそうしていた。

 

 

「フェリちゃん、お兄様、準備はいいか」

「了解でありますっ!」

「やってやるよばかやろー!」

一方、コンサートの舞台裏ではギルベルトが最後の打ち合わせを行っていた。フェリシアーノとロヴィーノ……この二人に間を埋めてもらうのは正直賭けに近かったのだが、普段と表情の違う二人を見れば安心できた。心配そうに見守っていたルートヴィッヒも今は平静を取り戻しており、フェリシアーノに何やら声掛けをしている。

「……ま、オープニングは俺様も出るけどな」

ステージに出るのは何年振りだろうかと考えているギルベルトにロヴィーノが近寄る。

「……アントンのこと、追い出したりしないよな」

「さぁな、アイツが言い出す場合もある」

「そんなことになったら、俺も抜けるぞ」

「ケセセ、そこは呼び止めようぜお兄様」

む、と唇を尖らせるロヴィーノの頭をギルベルトはクシャクシャに掻き回した。ロヴィーノは本番前に何するんだと更に不機嫌そうな顔になり、そんな姿を見てギルベルトはおかしそうに笑う。

「でも、信じてるんだろ」

「べ、別に……!」

ムキになりかけたロヴィーノだったが、そこで考えを改めたのか勢いを止めた。珍しく怒り出さないことを意外に感じているギルベルトをロヴィーノは強い目つきで見返す。

「俺じゃない、この場を頼むくらいに俺を信じてるのはアイツだ。俺も、アイツらの戻って来れる場所を守り抜ける度胸があるって……俺達を信じてる、アンタみたいに」

「……」

途端に口を真一文字に結ぶと、ギルベルトはロヴィーノの頭からパッと手を離した。それから身を反転させ、歩き出しながら声を張り上げた。

「おーっし、気合い入れていくぞー!」

ギルベルトの掛け声に応えてパラパラと拳が掲げられる。コンサート前の浮き足立った緊張感が場を包む中、取り残されたロヴィーノは呆れ顔になった。

「そこで照れんのかよ……社長」

 

 

ようやく解放され、フランシスの車に乗って会場に着く頃には開演から既に三十分程度経過していた。渋滞から抜け出し、駐車場にやっと滑り込むと関係者入り口でフランシスは二人を降ろした。車内でもだんまりだった菊の感情は読みづらく、この後のコンサートに支障をきたさないか不安が過ぎる。お礼を言って裏口へ駆ける二人に、フランシスは呼びかけた。

「アーサー、菊」

運転席から身を乗り出し、フランシスは笑ってみせた。とにかく、ここでの自分の役目は威勢良く二人を送り出すことにある。

「アイドルは笑顔が一番だよ、笑って!」

咄嗟に不恰好な笑顔を返してきた二人を見てフランシスは耐えきれず吹き出した。扉を開き、廊下を走っていく二人の後ろ姿をフランシスは見届け、車を発進させた。その顔にはいつも通りのゆったりとした微笑みが浮かんでいた。

「Après la pluie, le beau temps……」

その唇で歌うように母国語を紡ぎ、舞台裏の特等席で彼らを見守るために車を急がせた。今回ばかりは惜しいことに、メイクの時間には間に合いそうになかった。せめて衣装が成果と誇るとしよう。

 

Après la pluie, le beau temps.

 

曰く日本語で、『止まない雨はない』。

 

 

到着すると共に急いでスタッフの協力によってメイクと着替えを終え、バトンタッチまでの短い時間をステージ下で待つ。ギルベルトの合図でここからステージへ飛び出すことになっているのだ。それまでに伝えなければいけないことを菊へ話すため、口を開きかけたアーサーは菊が手を握り締めてきたことでタイミングを逃した。菊の沈んでいたはずの瞳が、暗闇でも分かるほど真剣味を帯びている。思わずドキリとするアーサーに、菊はしっかりと告げる。

「この一日が終わったら、伝えたいことがあります。時間をいただけませんか」

「……俺も、そう言おうと思ってた」

アーサーは自然と笑い、気遣う視線に手を握り返すことで応えた。

「そのためにも……ここで、決着をつける」

「もちろん二人で、ですよね」

「ああ。お前とだから、俺は……!」

まだまだ先は長いはずなのに、何だか遠いところまで来た気持ちになって目を細める。自分の庭園の小さな樹には止まらないと諦めていた青い鳥。やっとその羽ばたきが耳に届いたあの日から、もう随分と歳月が経っていた。

 

話は数時間前に遡る。アーサーが拉致された場所は、港近くの倉庫街だった。前々から密売の疑いはあったものの確固とした証拠が中々掴めないために手が出せない状態だったという。男が注射器を手にしていたこともあってアーサーは身体検査を受け、その所為でかなり時間が押してしまった。本来ならば事情聴取やら何やらと一日での解放は難しいはずなのだが、その詳細は判然としないもののアーサーは解放されていた。誰が機転を効かせたのか結局未だ分からずじまいだ。

それに加え、アーサーを襲ったあの男の言葉からは事務所にメールを送った素振りは明らかになかった。であれば、この空白にまだ何か隠されているはずなのだ。このコンサートで過去に向けて証明をした後に、アーサーは兄に話を聞くつもりでいる。

助けに来てくれたらしいアルフレッドとも言葉を交わせていない。人質がいることで突撃できずにいた警備隊を押し退けイレギュラーの存在として侵入し、そこまでやって補導程度で済んだのも多少はアルフレッドの存在があったからにもよるのだろう。

 

「お前ら、アツくなってきた頃だろ!? いよいよ真打ちの登場だぜ! 夜はまだまだ長いんだ、全力で叫びやがれー!!」

 

ワッと一際大きな歓声が上がり、アーサーは思考を切り替えた。次第にアイランドルを呼ぶ声が高まっていっている。キュッと手を握り合い、ステージが迫り上がる中で胸を震わせた。二人を待ち望んでいる仲間が、こんなにも多く存在する……コンサートやイベントの度、確かに感じるファンの温もり。皆で作り上げてきた、ガーデン・ティーパーティ。

「クリスマスガーデンへようこそ!」

「俺たちのティーパーティに参加したからには、一杯では帰らせねぇぜ!」

勢いよくステージ上に登場すると、繋いだ手を掲げて心からの笑顔で客席に応える。クリスマスの花……ポインセチアやヒイラギを模したスポットライトがステージを照らす。眩い光の中で、確かに二人はこの瞬間を一生懸命に、何ものよりも輝いていた。]

3.

 

「アイツ、人を呼び出すほど偉くなったの」

「俺に聞くな、元より兄さんが先に行けと言ったんだ」

「呼び出したのがアイツであることには変わりないじゃん」

……不満を漏らしながらアーサーの元へ現在向かっているのは、イギリスにいるはずの本家実子、その次男と三男である。今回の事件を収束させるため英国から一時離れてこちらへやってきていたのだ。最も、長兄とは違い二人が空港に降り立ったのは昨日の夜であった。多忙には慣れているのか顔色は通常と然程変わらない。

それから指定された関係者用控え室の扉を叩けば、扉は直ぐに内側から開かれた。

「兄さ……! えっ」

即座に迎え入れようとしたアーサーの口上はそこで止まり、代わりにアーサーは驚きに息を吸う。現れたのがコンサートに招待した母親と長男でなく、此処にいるはずのない次男三男ともなれば無理もない。

「いつ、こちらに……?」

「何だ、気付いてると思ってた」

どういった事だろうと意図を測りかねるアーサーに、三男は直ぐには言葉を返さなかった。思考の余地を与えたのだ。

「もしかして……」

思い当たる節を見つけたのか、アーサーはハッとした顔になって両者を見た。倉庫街、と呟く表情には動揺が窺える。

「……ひとまず、中へどうぞ」

緊張した声で兄二人を控え室に招き入れ、向かい合わせでソファに腰を下ろす。テーブルに置かれたインスタントのコーヒーには誰も手をつけなかった。

「言いたいことがあるならさっさと話したらどうだ」

テーブルの下で何度も両手を組み直し、どう切りだそうか迷っているアーサーに痺れを切らしたのは次男だ。まだ躊躇いのある口調で、アーサーが口を開く。

「兄さんたちは……その、現場に、いたんですよね」

「いたよ」

こともなげに返し、三男は試すような目つきでアーサーを見た。

「それで?」

「……俺は、元から囮だったんですか」

遠回しな言い方を避け、蟠っていた気持ちを晴らすためにアーサーは思い切って尋ねた。かつてのように実兄弟へ怯える様子は一切なく、額にうっすらと浮いている汗は切り込んだことへの緊張からだろう。ペリドットの瞳にはむしろ、挑戦的な意志が宿っている。

それが妙に苛つき、三男は口角を釣り上げて言った。

「そうだよ」

「……おい」

次男の咎める声にも取り合わず三男は続ける。

「作戦の席で名前が挙がったのは確かだよ。お前がこんな所で平和ボケしてたからね」

「こんな所、って」

「俺からしたら考えられないな、カークランドの家を出てお遊戯会に勤しんでるなんてことは」

その時、アーサーが腰を浮かせた衝撃で机上のインスタントコーヒーに波紋が浮かぶ。アーサーが反論しようとしていることを察して、少々の間三男は気を取られた。だってまさか、あのアーサーが?

「俺たちの仕事を、例えあなた方であっても馬鹿にするのは見過ごせない!」

「……兄を見下ろすとは良い度胸だね」

強気に出たアーサーに圧倒されたことを認められず、三男は咄嗟に皮肉を返した。

「そのくらいにしておけ」

今にも兄弟喧嘩が勃発しそうな雰囲気の中、呆れたような声音で場を制したのは遅れて現れた長男その人だった。背後には母親を連れ立っている。案内を任されたらしいフランシスが、扉を代わりに開けた姿勢のままアーサーに視線を投げかけた。対話って何か知ってる坊ちゃん、とでも言いたげな苦笑を浮かべられ、お返しに睨みつける。最後にはアーサーにだけ分かるようにウインクを一つして、フランシスはその場を去っていった。

「事情は俺から話す。……お前も、わざわざ挑発するな」

「……はーい」

まだ納得のいっていない色を浮かべるも、三男は素直に引き下がった。次男は先ほどと変わらず沈黙している。元々、寡黙な性格なのだ。

「アーサー。まずは私から報告をさせて貰います。今後正式に、ここでの貴方の活動を無期限で認めます」

前に出て始めに宣言したのは、落ち着いた面持ちの母だ。アーサーが感謝を口にする前に、それを手で制して話を続けた。

「ここに来るまでが少し遅くなったのは、事情を説明させていたからよ。私はこの事件について関与していませんでした。会社の全権を委ねた後だったから、相談してこなかったのは彼なりの温情と思って責めませんが」

そう淡々と話す母は少なからず責任を感じているのか、表情がいくらか険しい。

「……それに、一人で責任を抱え込んでしまうような教育をしていたのは私です。それで説明を受けた後、貴方についてのこれからは私と現社長の二人で話し合い、貴方の意志を尊重する方針に定めました」

「え……?」

長兄の方を揺れる瞳で見遣ると、視線を逸らされた。アーサーの反応に都合が悪そうな表情を作る。それはアーサーが照れた時にする仕草とよく似ていた。

「では、あの事件は試験だったと……?」

「違う。どうしてそういう話になるんだ」

混乱して口にしたアーサーの問いを、長男は即座に否定した。三男と次男の座るソファに嗜めるような目つきを寄越す。視線を明後日の方向に飛ばしたのは三男だ。

長男はそれから正面の座席に母と腰を下ろし、事情を話し始めた。

「大方アイツに吹き込まれたんだろう。俺がこの国にまで足を運んだのはここの警察と連携を取る必要があったからだが、深く踏み込むつもりはなかった。分かりきった話、奴らの逮捕はカークランドの役目じゃないからな」

まだ悩ましげな表情のアーサーの方をちらりと確認し、言葉を続ける。

「もちろん、お前を囮にする話なんて出ていない。もし奴らに会話を盗聴されていたとしても、それはお前が犯罪集団に利用される可能性を検討していたからだろう。まぁ、それも聴かれてしまっていたのだから対策も何もないが」

柄にもない失敗が腹立たしいのか長男はため息を吐き、苦々しげに語った。それから口を閉ざそうとした長男の脚を母が軽く叩いた。その動作にも面々が呆気に取られる中、観念したように長男は再び話し出す。

「……脅迫状をお前の事務所に送ったのは俺だ。正確には、届いたメールをそのままそちらにも送った。時間の余裕が無かったからな」

「それは……事務所を信じてくれたってことですか」

「……」

言葉を挟んだアーサーにそっくりな形をした眉を顰めて、長男は押し黙った。まるで何を言っても墓穴を掘ることを予感しているような沈黙。

「その時点では、頼れそうなものは何でも使いたかったんでしょう。彼が動いたのは貴方のためですよ、アーサー」

「……先代」

「ここでは母と呼びなさい。言い訳が思いつかないからと言って黙るのは悪い癖よ。代わって私が話します」

そこで助け舟を出したのは母だった。社交場では何枚も仮面を被れるよう努めてきた長男だが、扱いが分からず今まで碌に話してこなかっただけアーサーとの会話にはぎこちなさが払拭できないのだ。

「一縷の望み、というようなものです。結果、貴方の仲間は貴方の救出に成功した。コンサートも私とこの子で観ましたとも……事件の取り調べは次男三男に彼から任せてね。てっきり出席しないつもりと思っていたのですけれど、認識を改めたのでしょう」

長男はすっかりきまりを悪くしたようで、脚を組んだ姿勢で頬杖をつき、視線を合わせようとしない。天邪鬼にも程がある態度だ。しかしおかしなことに、この部屋にいる家族全員が同様の性質を備えている。アーサーはようやくその事に気付き始めた。

「じゃあ、認可して頂けるんですね」

「だから、母が先ほどそう述べただろう。ここに居着きすぎて英語を忘れたか?」

「照れると皮肉が出るのも悪癖だわ」

「困った事に貴方譲りですよ、お母様」

「……言うようになったじゃないの」

ついには舌戦が繰り広げられるかと思えたが、それきり口を閉ざして長男は立ち上がった。母親をエスコートして扉の前まで移動する。

「俺はもう帰る。一つ教えてやると、お前が半日も経たず解放されたのも、一行が突入時警察の目を掻い潜れたのもそこの二人がしたことだぞ」

「なっ!」

「ちょっと!」

爆弾を投下して母と共に控え室から出ていった長男に抗議の声をあげたのは言わずもがな次男と三男である。恨みのこもった視線を閉じられた扉に注ぎ、さっさと立ち上がる。

「信じられない、自分だけ暴露されたからってあの長男……」

「同感だ。今頃笑ってると思うと腹が立つ」

いつもは長兄を立てる二人も今回ばかりは腹に据えかねたのか不平不満を漏らしながら外に出ていく。アーサーも慌てて追いかけ、その背中に向かって声をかけた。

「あの、ありがとうございました!!」

アーサーのその言葉で廊下を歩いていた家族全員が振り返る。

「お前には過ぎたパートナーもいる。どうせなら世界のトップを目指せ。……アーティ」

最後にそう告げて、長男はもう振り返ることなく足早に去っていった。アーサーの精一杯の『イエス』は、きっと届いたことだろう。

 

 

何となく、直ぐ帰れる気になれずにアルフレッドは寒空の下佇んでいた。熱狂に包まれていたドームから、誰もが興奮で頬を赤くしながらそれぞれの生活へ戻っていく姿をただぼうっと見送る。

あの後遅れて会場に着くと、予想はしていたが隣に座っていたのは従兄弟のマシューだった。一度驚いた顔をして、何も言わずに微笑まれたものだからむず痒くてしょうがない。アーサーの救助に協力はしたが、まだ認めたわけじゃないと言い聞かせながらステージを見上げた。

再会したアーサーの隣には、いつでも本田菊の姿があったようにアルフレッドは思う。例えアーサーが一人でいようとも、その席は常に埋まっていて彼の存在に勝つことができない。

襲撃の時も、そうだった。一旦二手に分かれ、見張りの不意をつき無理矢理ねじ伏せて突破した際アルフレッドは菊と行動していた。その時自分は確かに言ったのだ。行け、と。アーサーを救うならば、それは自分でなく菊なのだと、どこかでもう分かっていたからなのかもしれない。

ヒーローに、なりたかった。

大切な人を二度と独りぼっちにさせない、物語の主人公に。正義の、味方に。そう思ったのは、きっと……。

 

「……!」

またも唐突に携帯のアラームが鳴り、素早く取り出すと表示された名に目を瞬く。

「あ、アルフレッド」

少し緊張したような声が鼓膜を震わせる。なんだい、と返すとその後に用件が続いた。

「まだ近くにいるか……? その、もう帰ったんなら今度……」

「会場の外にいるよ」

「外……!? お前寒いの苦手だっただろ、何やってんだよ」

呆れたようで、しかし心配の混じるその声につい笑ってしまう。中に入れよという言葉に甘えて、裏口から失礼するとアーサーが直ぐにやってきた。片付けももうそろそろ終わる、お祭り後の寂しさにも似た空気の中で、廊下を抜けた先の休憩室へ足を踏み入れる。

「アル……今日は、ありがとな。それに散々迷惑かけちまって……」

「謝らないでくれよ、頼まれてやったことじゃないんだ」

目を丸くするアーサーの隣をすり抜け、アルフレッドは寒いねと他愛もないことを呟いて近くにあったパイプ椅子に腰掛ける。アーサーはというと壁に背を預け、再度口を開いた。

「いや……でも、俺はお前に謝らなくちゃいけないことがある」

「昔のことならいいよ。俺はもう後ろを向かないことにしたから」

「アルフレッド」

ため息を吐きつつも、アルフレッドはアーサーの方へ顔を上げた。何故だかこの芯の通った声音には逆らえないものがある。

「……何を謝りたいって?」

「お前に引き戻しの話を持ち出された時、どうしてそこまで熱心に誘うのか俺には分からなかった」

アルフレッドは敢えてそこで口出しはせず、アーサーの言葉に耳を傾けた。

「お前の気持ちは、お前のものだ。だから、俺の受け取り方は間違ってるかもしれないけど……オールライドの決定権を得ようとしたのも、移籍を薦めてきたのも……俺のため、だったのか」

「……そうだったとしても、受ける気はないんだろう、君は」

「あぁ、俺はここでやっていくって決めてるからな」

アーサーのしっかりした答えにアルフレッドは苦笑した。やはり、誰が相手でも頑固なところは変わっていない。

「そうだよ。俺は一刻も早く大人になりたいと願ってた。芸能界に入った理由は君だって、いつか話しただろう。……君といた頃、俺は弱かった。守られる側の人間でいることが悔しくて、アーサーの逃げる場所が何処にもないのなら作ってしまおうと考えたんだ」

アルフレッドが訥々と語り出した内容にアーサーは驚き、上手く言葉が出てこない。

「けど、君はもう見つけてた。君自身の居場所と、一緒に歩いてくれる人を。……あの提案は取り下げておくよ。その代わり」

「……その代わり?」

ようやく聞き返すことで返事をすると、アルフレッドは不敵な笑みを浮かべてみせた。

「俺は全力で君たちの更に上を目指す。一区切りついたからって気を緩める隙なんてないんだぞ!」

「いいぜ、受けて立ってやる。……それと、アル」

アーサーも好戦的に笑い、それから座っているアルフレッドの頭にぽんと手を置いた。ぐしゃぐしゃと整った金髪をかき混ぜられ、突然のことにアルフレッドはぽかんとした。

「え、なに、なんだい……?」

「労ってんだよ。嬉しいんだ。てっきり表舞台から身を引くのかと思ってたからな。その調子じゃ、まだまだ現役でいてくれるんだろ?」

「もちろんだよ。決定権が俺に移るだけで、事務担当にも優秀な人材を揃えてるからね。俺は率先してスターになる道を選んだんだ……それより、恥ずかしいからいつまでも撫でないでくれよ!」

悪い、触り心地良くてと言い訳になっていない言い訳をしながらアーサーが名残惜しげに手を退ける。アルフレッドはふてくされた顔で髪型を直し、パイプ椅子から立ち上がるとアーサーに向き直った。見上げる形になっても、アーサーはアルフレッドをしっかりと見つめた。

「ずっと、アルとマシュー、二人に謝っても許されない逃げ方をしたことが引っかかってた。でも、結局はそれも逃避で、こうやってお前が考えてくれてたことにも気付けないでいた。今は反対の気持ちでいるんだ……ありがとな、アル。感謝し尽くしても足りないくらいのモノをくれて」

「ごちゃごちゃしてて良く分からないよ、一言でちゃんと伝えてくれない?」

意地悪そうに……しかし、心底から喜色を滲ませてアルフレッドは笑った。アーサーは面食らい、言われたことの意味を察すると眉を顰めて赤面した。それから意を決し、その一言を言うためだけに精魂を込める。

「……愛してくれて、ありがとう」

「うん。こちらこそなんだぞ、アーサー」

マシューにそれ言ったら、絶対泣いちゃうね。揶揄するアルフレッドに、アーサーは呆れて軽くその足を蹴ってみせた。

「バカ」

4.

 

「越えましたね」

「越えたな」

コンサートの後片付けも済み、最後まで残っていた菊とアーサーが帰路を歩いている最中にはもう日付けを跨いでいた。至る所でチカチカと光っているイルミネーションは健在で、深夜の割に街は彩りで満ちている。

「アーサーさん。明日はオフを頂いてますしそのまま私の家に泊まってください」

「……ん。俺は元からそのつもりだった」

菊が珍しく強気な発言をしてもアーサーは大袈裟な反応は見せず、穏やかに会話を楽しむ。アーサーとの距離はそんなに離れておらず、時々手袋を着けた指先に触れるくらいには側にいた。段々道が狭まっていき、自宅が近くまで迫ると、暗い道で菊は思いきってその手を取った。息を呑むアーサーを連れて、家まで走り出す。白い息が夜の切れ間へ吸い込まれていく。

「ほ、本田……!?」

玄関まで滑り込み、呆然としているアーサーを引き上げて居間の戸を開ける。素早くヒーターと炬燵を稼働させ、さっさとコートを脱ぐとお茶を沸かした。菊のスピードに呆気に取られて動けないアーサーにはぽちが寄り添い、精一杯温めようとしている。

「……アーサーさん。温まりましたか」

「あ、あぁ」

菊がお茶を盆に乗せて戻ってくると、アーサーから離れてぽちは菊の足元を駆け回った。菊が屈んでその身体を優しく撫でると、ぽちは尻尾を揺らしながら居間から出ていった。

「さて……では、アーサーさん。一先ず脱いでください」

「へ……嫌だけど!?」

菊の注文に当然ながら拒否したアーサーへ菊は手をかけ、すっかり冷たくなっているコートを脱がせた。それから長袖を捲り、そこにある縄の跡に険しい表情を作る。

「……これくらい、気にしなくてもだな……」

「気にしますよ。私は貴方が何より大切なんですから」

菊はため息を吐き、赤くなっている手首の跡を親指の腹でなぞった。それだけでアーサーの心臓は跳ね上がってしまう。

「な、なぁ。もういいだろ」

「……アーサーさん」

「う、うん?」

緊張するあまり語尾が裏返って、誤魔化すように唾を飲み込む。今にも触れ合いそうな至近距離に菊がいて、集中できない。そうして告げられた言葉はいたくシンプルな一言だった。

「好きです」

「すっ……!?」

今にも湯気が立ち昇りそうなほど顔を真っ赤にして、アーサーは壁側まで後退しようとした。しかし上手く力が入らず、結局は菊の為すがままだ。

「困ったことに……いざ告白をしようとして、出てくる言葉がそれしかないんです。貴方が好きです、アーサーさん。どうしようもないほどに」

眉を八の字にして、菊はさも愛おしげにアーサーを見つめる。普段は童顔に映る菊だが、その時ばかりは歳上だと再認識せざるを得なかった。無音の室内では今にも菊へ心音が聴こえてしまうのではないかとアーサーは危惧した。

「熱い……ですね」

「……っ」

手首に触れているため脈の速さには気付かれているのだろう、元々色白な事もあって肌の赤みが増していることも目に見えているはずだ。

「ほ、ほんだ」

「出来れば……名前で呼んでくれませんか。今だけでも構いませんから」

促すように微笑まれ、アーサーは唾を飲み込んだ。経った二文字の発音がこんなにももどかしい。名前を呼ぶのは初めてじゃないのに、心臓が鳴って痛い。

「菊……」

「……はい」

また一層菊の笑顔が深くなる。どこまでも温かい、アーサーの好きな表情だ。しかし、アーサーはふっと表情を曇らせた。

「俺はお前にずっと助けられてきてるし……それに、男だ。本当に俺で、後悔しないのか。こんな……」

「それ以上はよしてください。自分自身の言葉で傷付かないで」

アーサーの頬に菊の手が滑る。伏し目がちだった視線を上に向け、菊と目を合わせた。

「私も、同じように悩んでいました。この道を選んだことで、貴方の先の未来を奪ってしまわないかと」

菊の低音が耳朶に沁み入る。どこまでもひたむきに、互いを想った。

「……けれど、私は私に嘘を吐けなかった。身勝手なことに、伝えられないまま貴方を失ってしまう可能性に直面して、私はそんな結末には耐えきれないと思ったんです」

「俺も、そうだ。伝えられないまま終わる方が死ぬことよりも恐ろしかった……」

菊の胸板に顔を押し付け、アーサーが息を吐く。ぎこちなく菊はその身体に腕を回し、抱き締めた。

「……俺、も。す、……好きだ、菊。お前が、お前だけが……」

「アーサーさん」

アーサーが顔を上げられるくらいの隙間を作り、菊はそっと語りかけた。

「顔をもっとよく見せてください」

「……恥ずかしいだろ」

「私だって、一生懸命告白したんですよ?」

言われて、渋々顔を上げる。まろやかな黒く濡れた瞳と視線がかち合い、つい欲求が口をついた。

「キス、しないか」

「……さっき、恥ずかしいって言ってましたよね」

「い、いや、ごめん。今の無しだ。忘れろ」

しどろもどろになってそっぽを向こうとしたアーサーの顎を菊が優しく掴んだ。そのせいで目蓋を閉じる間もなく口付けられ、アーサーの身体がまた一段と熱くなる。

……かつて、キスをしてこんなにも幸福を感じたことがあっただろうか。甘い痺れが身を包み、それだけでもう満足だった。こんなに人に恋をしたことも、特別だと感じたことも初めてで、許容量を超えた恋情が涙となって頬を伝う。

「……カッコわりぃ……」

「そうでしょうか? とても魅力的ですよ」

鼻を啜るアーサーに菊は優しく微笑む。

「私達はアイドルですから……公表は、今は難しいかもしれませんが」

ふと、菊はそんなことを話題に上らせた。その真剣な表情からは、ずっと考えていたことが窺える。

「いつか、応援してくださっている皆さんにもちゃんと話したいと思っています。私達がもっとずっと歳をとって、引退する時までには、必ず」

「……俺も、それがいい」

向かい合って手を繋ぎ、アーサーはおずおずと指を絡ませる。菊もそれに応えて隙間を埋めた。外はまだ寒いけれど、互いの温もりは嘘偽りのないものだった。

「アーサーさん。もう離しませんからね」

「あぁ……ずっと一緒だ、菊……!」






 


 

「あの二人、今頃アツアツなんだろうなぁ」

先ほど乾杯したばかりのワインを片手にそう漏らしたのはフランシスだ。ギルベルトとアントーニョの古馴染みを自宅に招き、小規模な飲み会を催している最中のことだった。

「くっ付いた途端手のひら返すつもりなん?」

親分復活やで、の一言で普段の陽気さを既に取り戻したアントーニョがおかしそうに笑いながら話題に乗っかる。それに対してギルベルトはフランシスの作る洒落たつまみを口に運びつつ呆れた表情になる。

「フランシス、お前はお前で取っ替え引っ替えやってるじゃねえか」

「それ何年前の話? 言っとくけど、俺ずっと仕事メインで頑張ってきてるんだからね」

「そりゃ助かる、これからも俺様のためにせかせか働きやがれ」

唇を尖らせて拗ねるフランシスの文句をギルベルトはワインと共に流した。

「でも、これで安心できるんとちゃうん? ずっと見守ってきたフランの『坊ちゃん』は無事報われたっちゅうことやんかぁ」

「……そういうアントンはどうなの?」

あ、逃げた、とでも言いたげな表情を一瞬覗かせた後、アントーニョは微笑みを浮かべた。

「俺は事件にはもう干渉できひんから。けど、やれるだけやった。……ここらでやっと、区切りやな」

「良かったじゃねぇか。お兄様にもしっかり謝るんだな、お前が事務所辞めたら仕事辞める気だったんだぜ」

「ううん、そしたらどないしよ。あ、トマト農家とか合ってるんとちゃう?」

ギルベルトのキツめの拳骨が頭に落ち、アントーニョは若干涙目になって言い訳した。

「冗談やって」

「当然だ」

「くっ」

その光景を見てついにフランシスは吹き出し、二人が視線を向けた頃にはお腹を抱えて笑い出していた。それはもう、およそ今までのフランシスの性格からは考えられないほどに笑い転げているため、段々二人は心配になってきた。

「ついに気でも狂ったか……?」

「お酒呑みすぎなんよ、水や、水」

アントーニョが水を入れに席を立っても、フランシスが笑い止む様子はどこにもない。ギルベルトは頬杖をつきながらそんなフランシスを眺めつつ酒を呷る。唐突に、ふいっと興味をなくしたかのように視線を外し、呟いた。

「ビールでも買ってきてやろうか」

「いいよ……いらない」

顔を両手で覆っているフランシスから、ズズッと鼻を啜る音が聞こえた。

After 10 years

 

 

「やっぱりすごいですよ、学校でもアイランドルの話題ばっかりですもん」

アクシスプロダクションにて、休憩室でイスに座ったままテーブルに寝そべり、そのままの体勢で伸びを試みているのは最近事務所に加わった女子高生アイドルの通称セーちゃんだ。褐色の肌は白いテーブルによく映え、活発そうなイメージを人に与える。

「良く決断しましたよね、ファンに向けて婚約を発表するなんて。これも時代の変化なのかなぁ」

「いやぁ、それは世間の反応で判断するもので、発表はあの二人の意志だと俺は思うよ」

口元に微笑を湛え、少女の前にココアを置いたのはフランシスだ。歳を重ねた分、捉えどころの無さはむしろ増している。

フランシスはそれから腕時計に視線を下ろし、ぽそりと呟いた。

「何か言いました?」

「ん? あぁ、もう直ぐ着くかな、って」

フランシスが返事をした直後、二人分の足音が地面を伝って届いた。間もなく休憩室の扉が開かれ現れたのは、メディアの中でもよく目にする二人組……菊とアーサーである。さすがにその表情には疲労が滲んでいて、アーサーに至っては元々の癖毛が更に跳ねている。

「揉みくちゃにされた」

「予想はしてましたけど、壮絶でした」

それぞれ所見や感想を口にしながら着席する。それでも菊はスッキリとした表情で言葉を続けた。

「ですが……報告できて良かった。これからは堂々とアーサーさんが好きな人だと答えられるんですよね」

「おめでとう。まぁ、もう何回も言ってるけどね。はい、記者会見頑張った記念に一杯」

いつの間に作っていたのか、フランシスは二人にティーカップを差し出した。生姜とカルダモンの匂いがふわりと漂い、アーサーが数秒の後に立ち上がる。

「って、このチャイ俺が持ってきたやつじゃねぇか! 半端な淹れ方してたらブン殴るぞ髭野郎!!」

「淹れてあげただけ感謝しなよ陰険眉毛。あ、君も飲む?」

「飲みたいでーす」

ココアを一気に飲み干して手を挙げるセーちゃん。その明るい振る舞いがお茶の間にウケるのだ。

「まぁまぁアーサーさん、まずは飲んで落ち着きましょう。気遣ってくれたのは確かですから」

「う……菊がそう言うなら……」

「本当変わらないねぇ二人共! 変わったのって呼び方くらいじゃない?」

「なっ」

言わせておけば、と今にもアーサーがフランシスに蹴りをお見舞いしようとした刹那、菊がさらりと宣った。

「そんなことないですよ。ちゃんと色々頂いてます」

「その言い方はどうなんだ菊!?」

次には顔を真っ赤にして自分に抗議し出したアーサーが可愛く見えて、菊は表情を和ませた。その雰囲気に耐えきれないとばかりにフランシスが休憩室のドアノブを掴んだ。

「じゃ、後はお好きに」

「私を置いてかないでくださいよ! あ、先輩、紅茶頼みましたから」

「お前は先輩に大っぴらに茶汲みを頼むな!」

慌ただしく二人が休憩室を出ていき、アーサーはようやく人心地着いて座り直す。好々爺の体で紅茶を飲んでいた菊はアーサーに笑いかける。

「慕われてて良いじゃないですか」

「あれは舐めてるっていうんだよ。アイツ、イタズラ電話頻繁に掛けてくるんだからな」

「それは既にもうただの通話では?」

他愛ない応酬をしながら、段々と距離を詰めていく。もう一度誰か覗いていたりしないか注意深く周囲を見渡した後、二人はキスをした。

「……アーサーさん。実は指輪も用意してあるんです。受け取ってくれますか」

「はは、こんなところで渡すのか?」

笑うアーサーに、これからまた忙しくなりますからと菊は応える。大切そうに取り出した箱からプラチナの煌めきが現れると、アーサーは翡翠色の右目から涙を一粒溢した。

「相変わらず涙脆いですね」

「情緒が豊かなだけだ、紳士だからな」

アーサーが耳まで赤くなった顔と涙を隠すようにそっぽを向くと、菊は名前を呼んだ。渋々アーサーが視線を合わせると、菊がそっとその手を取る。

「誓ってください。人生の果ての果てまで、私の側で生きてくれると」

「……バカ、もうとっくの昔に誓ってる」

互いの薬指に指輪が嵌められ、息遣いが感じられるほど近く寄り添う。

春の暖かな木漏れ日が、窓に掛けられた薄いカーテンをすり抜けて二人に注がれる。天然のスポットライトで、空気中を舞う細かな埃は光が当たってきらきらしい。何処に立っていようと、二人でいればそこは舞台の上だった。紡ぐ言葉の端から音符になり、花になり、それらはすべからく愛になる。


 

その庭園は、ただ果てしなく。



 

END.

NANGOKUSHIKI

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