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1.

 

『今からそこに行ってもいいか』

掛かってきた電話の向こうで、アーサーの思い詰めた声を聴いた。時刻はもう深夜を回っていたが菊は一も二もなく了解し、アーサーがやって来るのを待っていた。

それから暫くして、門の方から誰かが駆け込んでくる物音を耳が拾った。間も無く戸を叩かれ、今出ますよと声掛けをしてガラガラと開け放つ。

「ほんだ」

息急き切って現れたのはやはりアーサーで、如何にも弱ったその表情に心配が募る。突っ立ったまま所在無さげにしているアーサーの手を引き、菊はひとまず家の中へ招き入れた。

アーサーが畳に座るのを見届けて、用意していたお茶を出すために台所へ向かおうと身体を反転したところで、着ていたパーカーの裾を掴まれた。驚いて振り向いた刹那、そこへ助け舟とばかりに飼い犬のぽちが滑り込んでいく。

「ぽちくんが遊んでほしいようです。お茶を淹れてくるだけですから、少し待っていてくださいね」

「あ、あぁ……うん、ごめんな」

アーサーは自分でも何故そんな行動を取ったのかが分からない様子で歯切れ悪く返事をした。それから撫でられるのを待っているぽちの毛並みに触れる。

 

……ぽちは、アイランドルとしての仕事が増えた頃に菊が出会った捨て犬だった。その日は雨が降っていて、ダンボールの中で濡れそぼって小さな声で鳴くその子犬が見捨てられずつい連れて帰ったのだ。

アーサーと初めて出会った時のことを思い出して縁を感じ、犬一匹養うことのできる収入源が確保されていたことから菊は次いで環境を整えていった。ちなみに、ぽち、と名付けたのは直感だ。

 

暇が出来れば遊びに来るアーサーに元気がないからか、ぽちは精一杯尻尾を振って戯れる。その健気さに応えるようにアーサーもそっと微笑を浮かべた。

「熱いかもしれませんので、気をつけて飲んでくださいね」

そんなアーサーの前へ湯気の立つお茶を置き、菊は対面に座った。サンキュ、と申し訳なさそうに礼を言い、慎重に息を吹きかけてお椀に口を付けるアーサーを観察する。

「……落ち着いた。それとごめんな。こんな時間に押しかけて、迷惑だろ」

「まさか、むしろ私を頼ってくれて嬉しいくらいです。大抵の事をアーサーさんはお一人で抱え込んでしまいますから」

本心から菊はそう応え、アーサーが何か話し出すのを待つ。程なくして口を開いたアーサーは、ぽつぽつと内情を話し始めた。

「母さんと、長男が……クリスマスコンサートに出席するらしいんだ」

「私たちのコンサートにですか? 驚きました、確かイギリスに住んでいらっしゃったのでは」

「そうだ、本国にいる。だから余計に嫌な予感がして……いや、用事のついでと書かれてはいたんだが」

片手で顳顬を押さえるアーサーを案じつつ、菊は思考を巡らせた。言葉通りの意味かもしれないし、アーサーが勘繰るのも一概に杞憂とも断じれない気がしていた。

「……何かしら、意図はあるのかもしれません。けれどアーサーさんのお母様は活動に肯定的でしたよね」

「そう……そう、だよな」

曖昧に首肯をするアーサーの脳裏にちらついていたのは、アルフレッドの言葉だった。

 

いくら母親が君の肩を持ったとしても———

 

「……アーサーさん?」

「あ、あぁ悪い……何でもない」

「話しづらいことなら話さないで構いませんが……どうか、不安が募るようなら仰ってください。具合が悪くなる前に」

十一月に入って冷え込んだ空の下を駆けてきたのだろう、まだ冷たいアーサーの頬にそっと触れる。近付き過ぎだろうか、と思い悩む菊に反して強張っていたアーサーの表情が緩んだ。短く切られた前髪が僅かに揺れる。その無防備な様子に菊の心臓がどくりと脈打った。

「……アルの、事なんだが」

アーサーが躊躇いながら口にしたその名前に、菊の瞳が気付かれない程度に細まる。菊自身、まだ判然としない微妙にささくれ立った感情だ。ぽちが菊の方へ擦り寄ってきたおかげでそれも直ぐにパチンと弾けた。

「気になる話をされて……それで、思ってた以上に堪えてたみたいなんだ。……今は、お前がいてくれて本当に助かってる」

アルフレッドとの事は、自分で解決したいと思っている。しっかりした口調で告げて、次には照れた表情で頬に添えられた菊の手から逃れた。恥ずかしそうな小さい声でありがとな、とだけ言ってそっぽを向かれる。

「今夜はもう泊まっていってください。明日も一緒ですから、仕事に支障は来たしませんし」

「……さすがに俺、甘え過ぎじゃないか」

「いいんですよ、歳上には甘えても」

思わず菊が笑うと、アーサーはちょっと拗ねた顔をして唇を尖らせた。

「俺だってもういい歳なんだからな」

「存じておりますとも。でも、私にはいいんです。そういう事にしておきませんか」

負けた、という顔でアーサーがぎこちなく頷くのを菊は微笑ましく思った。

 

 

それからドラマの撮影が始まり、アルフレッドとアーサーは当たり前だが顔を合わせる機会が多くなった。二人が初めて共演することになるドラマは1クールの撮影ではなく、二時間の特別ドラマで撮影期間は一ヶ月となる。短いようで長い時間を共有することは目に見えているため、アーサーはぎこちなくもアルフレッドとの溝をアーサーなりに埋めようと努めていた。無理もない話だが、クリスマスコンサートも控えている霜月の頃、多忙も極まり疲労も溜まる。それでも、アーサーは問題解決の糸口を手繰るのをやめなかった。菊に宣言した手前、後ろに退く気もさらさらない。

「アル、さっきのシーンの事なんだが」

「俺の演技にケチ付けにきたのかい」

「そうじゃない。……お前な、幾ら何でも本番前と態度変えすぎじゃないか」

「当たり前だろ、カメラが回ったら俺は主人公(ヒーロー)なんだから。それに君の手前大手を広げて振る舞うのは面倒だよ」

アルフレッドといえばこんな調子で、アーサーを片手であしらうばかりだ。引き抜きたいと訴えたのはどの口だと抗議したくなる。

「……とにかくだ。俺とお前は仲の良い兄弟って役付けなんだから、演技中にまで私情を持ち込むな。監督だって困るだろ」

役付け、という言葉に反応したのかアルフレッドは不服そうな顔でアーサーを見据えた。

「私情って、何? さっきのアドリブがそうだって言いたいのかい。君だって妙に勘繰り過ぎだし、台本通りの動きなら誰だって出来るじゃないか」

「……それは作品への冒涜に成りかねないだろ。まずは指示を完璧に、それ以上にこなしてからじゃないと役としての自分には入り込めない」

「君の場合はそうだとしても、俺には俺のやり方があるんだ。役作りにまで首を突っ込まないでくれないか、それこそ私情を挟んでるって言うんだぞ」

お互い食い違うばかりの意見に真っ向から火花を散らし、一向に話が進まない。こんな事の繰り返しでアーサーの頭痛の種は尽きてくれないのだ。

「……俺が努力してきたことを褒めてもくれない癖に、顔を合わせればお小言ばっかりだ。そんなに俺が勘に触る?」

「そ、そういうわけじゃない! 俺は、ただ」

そっぽを向くアルフレッドの思わぬ切り出し方にアーサーは動転し、言葉を続けることが出来ず息を詰まらせた。

ただ……ただ、歩み寄りたいだけだと言ったら、どんな反応が返ってくるのだろうか。それを想像すると軽くものを言うことは出来なかった。今更何を、と返されればそれまでなのだから。

……結局アルフレッドとの対話は平行線を辿り、気落ちしたままアーサーはその日の撮影を終えて次の仕事へと向かった。

 

 

コンサートに向けたダンスレッスンをこなし、アーサーは疲れ果ててレッスン室の床に転がった。意外とタフな方ではあるが、さすがの菊も髪先から汗を滴らせている。冬だろうとお構い無しに全身が熱い。

「なんだよ、二人してへばって」

そんな所へ現れた社長ことギルベルトは、情けねぇなぁと二人を叱咤すると共にそれぞれへタオルを投げた。次いでペットボトルも渡される。

「ありがとうございます」

「おお、感謝しろよ。……なんだアーサー、この俺様が直々に施しに来てやったってのにそのしけたツラは?」

アーサーの物言いたげな視線に気付き、ギルベルトは挑戦するように肩頬を吊り上げる。それで遠慮なくアーサーも口火を切った。

「俺の家に招待状を送ったこと、何で俺に教えなかったんだ」

「は……招待状? 何の話だ」

本当に覚えがないのか、瞬くギルベルトにアーサーも驚く。コンサートチケットの当落結果はもう出ているものの、まさかあの家が一般でチケットを買うとは到底思えない。だとしたら、VIP用に配る招待状しかないと思ったのだ。それが送れる人間は限られてくるし、確かに自分から渡さなかったことを決心出来ずにいたアーサーもアーサーだが何か一つ断りがあるべきだと思ってギルベルトに抗議したというのに、では一体誰が招待状を届けたというのだろうか。

「まぁ……それなら招待状を受け取ったってことは確定だろうが、俺が送ってないことも確かだ」

「そうか……決めつけて悪かった」

だとしたら誰が、という疑問を一旦隅に置いやる。聞いたら直ぐ分かることだろうと思ったのだ。それからギルベルトに言おうとしていた頼み事を思い出してアーサーはパッと顔を上げた。

「それで、他に頼みがあるんだが……」

アーサーはそこでギルベルトに提案を口にした。それを、菊も近くで聞いていた。

ギルベルトはあっさりと頷き、来た時と同じように颯爽とその場を去っていった。

「……よし、ひとまずはクリアだ。本田、もう一回さっきの部分合わせ……本田?」

ひとりでに拳を握り、菊の方へ身体を反転ささたアーサーは心ここに在らずな菊が目に映ると訝しげに名前を呼んだ。

「……すみません、ちょっとぼーっとしてたみたいで」

ふっと顔を上げ、ぎこちなく微笑する菊の疲労を感じ取るとアーサーはまたその場に腰を下ろした。

「さすがにハードワークだしな。……もう少し休むか」

「あぁお気になさらず、再開しましょう」

「俺だって休みてぇからいいんだよ。……だから、これは俺の為なんだからな」

「……なんというテンプレ……いえ、お心遣い痛み入ります」

穏やかに笑いながら、菊は心中アーサーへ謝る。

 

……実にすみません、嘘を吐きました。

私は、気が抜けてたわけではなくて。

 

その逆、だったんですから。

 

 

翌日の撮影にはイヴァン・ブラギンスキも加わった。イヴァンとはオールライド時代での関わりもあったことから知らない身ではないのだが、やはり少し苦手だとアーサーは思う。笑顔の下で実際のところ何を考えているのかが読めない人間の大抵は商売上手であるため、本家での教育上本能が避けたがる。

その日の撮影は外になっていて、鼻頭を赤くして支給のホットミルクティーを飲んでいたアーサーの方へイヴァンがゆっくりとやってきた。ロシア出身で寒さに慣れているからか、身震いすることもなく足取りは普段と変わりない。

「ズドラーストヴィチェ! あれ、どうして一歩下がったのかな」

「よぉイヴァン……気のせいじゃないか」

「そうかなぁ、だったらもっと近付いてくれてもいいんじゃない?」

うふふ、と大きな身体に似合わず邪気無く笑い、いつも掛けているマフラーを揺らしながらアーサーとの距離を縮めてくる。

「あ、そういえば。アーサー君って、アルフレッド君と面識があるんだよね」

「……そうだが、それが何か?」

「やだなぁ、そんなに身構えないでいいんだよ。ただね、君は彼の綱を放すのが早すぎたんじゃないかなぁって思って」

「……は?」

何でもない風に話しながら、その実的確に傷を突いてきたイヴァンを見上げる。相変わらず口元こそ笑みを浮かべているものの、瞳でアーサーを責めている。ただアーサーにアルフレッドの悪口を言いにきたのではないことは、それで気付けた。

「……君もあの時、若かったのは分かるよ。でも彼はもっと幼かった。僕の言いたいこと、分かるよね」

「……ッ」

返す言葉があるはずもなく、アーサーは下唇を噛んだ。頭上からは容赦なく、歌うような優しい声がアーサーを叱責する。

「中途半端に投げ出すなら、初めから愛情なんて注ぐべきじゃなかったんだよ。所用物にするなら徹底的に管理するべきだったんだ」

「管理したいなんて思ったことは一度もない! ……笑いかけてもらってたのは、むしろ俺の方だった」

イヴァンに見据えられ、背中に冷や汗が伝おうともそれだけは違うと否定する。ふぅん、とイヴァンは目を細め、アーサーにまた一歩詰め寄るとそっと耳打ちした。

「僕の後ろをごらん。丁度聞こえない距離にいるけど、さっきからアルフレッド君が見てる」

本人に気付かれない程度に、アーサーはイヴァンに言われた方角を盗み見る。偽りなくアルフレッドが遠くからこちらを窺っていた。思わず息を呑み、アーサーは俯くと靴先だけをじっと睨んだ。その姿勢のせいか、叱られてばかりだった不甲斐ない頃の苦い記憶が胸に去来する。

「また仲良しに戻れるといいね。君が征服するのか、それとも彼に首輪を付けられちゃうのかは分からないけれど。……ああでも、安心して。アルフレッド君が事務所の権限を得ることには僕も反対だから、どちらかと言うと君に期待しているよ」

それじゃあ頑張って。

動けなくなっているアーサーを親しげに抱擁し、時計を確認しながら休憩の終わりを報せるとイヴァンはアーサーの横をすり抜けて撮影現場へと歩いていった。あんなに話す方だったのかと戦慄しつつ、複雑な表情でアーサーはその広い背中を見つめる。

「……惑わされてたまるか……!」

そして反骨心から拳を握ると、勢いよくイヴァンとは反対方向へと身を翻す。その先にいるのはアルフレッドであることは重々承知の上だ。アーサーが突然こちらに向き直ったことが意外だったのか、レンズの奥で青い瞳を丸くしているアルフレッドの前で立ち止まるとコートの懐からきっちり閉じられた封筒を取り出し、勢いに任せて差し出した。

「コンサートのチケットが入ってる」

「……これを、どうしろって」

「予定が空いていたら来い。絶対に損はさせない」

「……」

それは、アーサーがギルベルトに頼んで貰った招待状だった。渋々と言った形で招待状を受け取るアルフレッドに、アーサーは補足とばかりに早口で話す。

「イヴァンの言うことは話半分に聞いておいた方がいいぜ」

「……すっかり動転してた人に言われたくないけどね。何の話してたんだい」

「結果的には背中を押された。言えるのはそれだけだ。……ドラマ、成功させるぞ」

「もちろん」

足元から雪が吹き付けてくるような、イヴァンの冷たく意味深な発言を振り払ってアーサーは宣言した。それに応えたアルフレッドの表情には、挑戦的な笑みが浮かんでいた。

2.

 

アクシスプロダクションの中でもアイランドルのクリスマスコンサートは大きなイベントであり、準備にも長い期間を要する。どんなセットで行くか、衣装は、メイクはと打ち合わせを重ねる内により凝ったステージを創り上げていく。

二人のステージに通じるコンセプトは『庭園』であり、クリスマスの庭園ともなればイメージは尽きない。去年のクリスマスとは違う趣向を凝らすにしても良いところを損なわせてはいけなかったりと、その配分が中々難しいのだ。

連日連夜社員を巻き込んだ話し合いは続き、その日お開きになったのも随分遅い時間だった。

「悪い本田、帰る前に資料のコピーをしておきたいんだが」

「了解です。フェリシアーノくん達と話して待っていますね」

当たり前のようにそんな会話を繰り広げる二人を、フランシスがからかう。

「ははぁ、二人で帰るのは前提なわけね。仲がよろしいこって」

「いちいちイチャモン付けんじゃねえよ髭」

菊の時とは打って変わってアーサーはフランシスを容赦無く罵ると事務室へその足を向けた。背後で何やら訴えているフランス人は無視することとする。


 

「……あ」

「何や、お前もか」

事務室の一角の小さなスペースにあるコピー機の前で佇んでいると、同じく用があって来たのだろうアントーニョが現れた。メンバーがいる時はまだ自然に会話が出来るが、二人だけになると途端口を閉ざしてしまう。

無機質な機械音だけが狭い空間に響き、気まずい沈黙が流れる。

「そういちいち身構えんでもええやろ。落ち着かへんわ」

「……別に、身構えてなんか」

「ほんま、嘘が下手になりよって……」

あんなクソガキやったのに、と意外にも柔らかい声でアントーニョは付け足した。

「正直な話、直接関係無いお前を恨むのは筋違いなんやろうし、ネチネチ引きずってるわけにもいかへんやろ。俺はもう気にしてへんよ」

アントーニョのその一言は、アーサーの懐中で何度も繰り返された。心の澱みが晴れていく心地がする。

何よりも、アントーニョの口からそれを聞けたことにアーサーは救われた。


 

アントーニョとアーサー、というよりも、カリエド家とカークランド家の確執が深いのには理由がある。カークランド家が勢力を伸ばしていく中で消えていった大手企業は数多くあり、吸収や合併だけでなく解体や倒産を余儀なくされた企業も少なくない。カリエド家もその内のひとつで、かつてはカークランド家と業績を張り合う程の大きな会社だったのだが次第に落ちぶれ、ついには倒産にまで追い込まれてしまった。一気に借金を抱えることになったカリエドの人間は当然カークランドへの恨みは強く、倒産するまでの過程で裏で手回しされていたという噂が立った所為で余計にだった。

まだカリエド家が幅を利かせていた頃、アントーニョとアーサーは度々顔を合わせていたのだが、陽気な性格のアントーニョと当時周囲への懐疑心が人一倍強かったアーサーは仲が悪く、何度も衝突を繰り返していた。

しかし、頭目を失い分裂したヴァルガス家の子息だったまだ幼いロヴィーノを引き取ってからはアントーニョの気性は前よりも落ち着き、アーサーと言い争うことがもくなりお互い干渉しなくなっていった。また確執が生まれてしまったのは偏に借金の影響でロヴィーノと離ればなれになってしまったことが原因なのだろう。最も、カリエド家が潰れるより前にアーサーは日本へ渡っていたのだが。

 

「……ま、割り切るまでに三年以上も掛かっとる時点で俺も俺やけど。おまけに場所がコピー機の前じゃ格好付かへんなぁ」

アントーニョは軽快に笑い、どう言葉を返そうか吟味しているアーサーの肩を軽く叩いた。

「とっくにここはお前の居場所や。ここでだったら誰に会おうが堂々としとき」

「っ……」

鼻の奥がツンとして、気を緩ませたら涙も滲んできそうでアーサーは踏ん張って耐える。

「あぁ……そうする」

やっとのことでそれだけ絞り出すと、アントーニョは満足気に口角を上げた。

 

 

「……最近、妙じゃない?」

他のメンバーが帰途に着く中、戻りの遅いアーサーを待つ菊へ事務所に残っていたフランシスはそう問いを投げかけてきた。突然の話に菊はキョトンとして首を傾げる。

「妙、とは」

「なぁんか順調に行き過ぎな気がするっていうか……アルやアントンと仲を改善しつつあるのは良いことなんだけどさ」

「……アーサーさんのこと、ですか?」

「菊は気にしてるかと思って」

フランシスは揶揄するようにくつくつと笑う。それから「冗談はさておき」と前置きし、扉の方をちらりと窺いながら話を続ける。

「アーサーに限った話じゃない。この事務所だってそうさ。このままうまくコトが運べばいいのにね」

「……フランシスさん、そういうのをフラグと呼ぶのを知っていますか」

嗜めるように言葉を返した菊に、何やら含みある眼差しをフランシスは向けてきた。お兄さんの目は誤魔化せないよ、とばかりに瞳が雄弁に語りかけてくる。

「……せめてジョーヌに染まるより、先にルージュで咲いてくれよ? クリザンテーム」

 

『クリザンテーム』は、フランス語で菊のことをいう。ジョーヌは黄色、ルージュは赤色だ。恐らくそれぞれの花言葉を指しているのだろうと思って、菊は表情を引き締めた。

 

 

ドラマの撮影も無事に終わり、後数日と迫るクリスマスコンサートの準備が着々と進んでいた。事務所の人間が一体となって運営していくのは気分が良く、主役である二人の一振り一振りにも熱が込もっていった。アーサーを奮い立たせる要因にはかつてないプレッシャーが大部分を占めていて、それを武器にしてまで伸びようとする心意気は折れない翼を思わせる。

 

クランクアップの日、目の前が埋もれるほどの花束を抱えてどうにか視線を巡らせたアーサーが捉えたアルフレッドの表情は、成長しようと変わらない幼い頃の面影を感じさせる笑顔を浮かべていた。あの笑顔を信じるのならば、当日は来てくれるだろうとアーサーは思えた。きっと仏頂面で、素直じゃない口上を述べてくるに違いない、と。

マシューには既に招待状を送ってあるが、速達でお礼の手紙が届いてきたからまず間違いなく出席するはずだ。

知人の出席者の中で、一番読めないのは長男である。母の付き添いという形ではあるにしても、騒々しい場が苦手そうな顔をしてアイドルのコンサートの熱狂に果たして耐え切れるのかがまず疑問だ。

「……遂にこの日が来てしまった……」

レッスンが終わり、今日はもう帰途に着くだけとなった頃、アーサーは深刻そうな響きでそう呟いた。

「コンサートはもう少し先ですけど、何かあるんですか」

「これから母さんと長男を空港まで迎えに行くんだ。ホテルにまで送り届けてから兄さんは仕事に向かうらしいからな……」

正直一番の関門だ、と項垂れるアーサーに菊はふと提案を口にした。

「私もご一緒してよろしいでしょうか」

「えっ」

「まだ一度もご挨拶できていないので。あぁもちろん、ご迷惑になるのでしたら断ってください」

「迷惑ってこともないが、その……あ、挨拶って」

アーサーは語尾を小さくして若干顔を赤く染める。アイドルのパートナーとして、という意味だと分かってはいるものの何やら恥ずかしかった。菊がやけに真剣な顔で言い出したからだろう。最も、自分たちはそんな関係では無いのだが……。

「多少荷物持ちにはなるかと」

「そこまでいうなら……頼む」

「はい」

照れを隠せていないアーサーに訂正を入れないまま菊は安心したように頷く。車の免許もあればもっとお役に立てたでしょうに、と残念そうに漏らす菊をアーサーは奇妙な気持ちで見つめていた。

 

 

「お久しぶりですお母様、兄さん。無事に着いて本当に良かっ」

「その話は長くなるか? だとしたら時間がないんで後にしてくれ」

出会って早々アーサーの言葉を遮り時計を叩いて急かす兄に、貼り付けた笑顔をひきつらせる。顔の造形は似ているものの、アーサーの遊び放題な髪質に対して長男の髪型はまとまっていて年相応に落ち着いている。劣等感も芽生えないその完璧さを何年振りかに目の前にして、既に心が痛んだ。

「少し待ってください、紹介したい人がいるんです」

「……紹介?」

兄の視線がアーサーの後ろで控えている菊に向けられる。気を引き締める菊に、意外にも長男は柔和な表情を浮かべた。

「アーサーさんとユニットを組ませていただいている本田菊と言います」

「あぁ、君が例の。私は知っての通りこれの兄だ。愚弟がいつも迷惑を掛けているだろう、すまないね」

アーサーは暮らしが長いから日本語が流暢なのかと思っていたら、その兄もこれまたすらすらと日本語を話した。そのことへの驚きを胸に秘めて菊は微笑みを浮かべる。

「いいえ、むしろ助けられていることの方が多いですよ。……挨拶が遅れてすみません、お会いできて嬉しいです」

アーサーの母と兄、両方を見つめて菊は心からの思いを吐露した。


 

込み入った話ならば目的地に着いてからにしましょう、という母の言葉に従い車に乗り込む。ホテルまでの道中車内での会話はなく、そのピンと張りつめた緊張からアーサーの家庭の複雑さが読み取れてしまう。

荷物をホテルにまで運び、手早く身支度を済ませた兄と共にアーサーはまた駆り出されていった。

ちなみに免許こそ持ってはいるものの自家用車を持つ気はないのか、アーサーが動かしているのはレンタカーである。何でも運転は出来はしても、動かすより乗る方が好きなのだそうだ。免許を取ってあるのはこういう時のためなのだろう。

そうして、アーサーが戻るまでの母親の話し相手として残された菊はこの機会にと口を開こうとして、閉じた。先にアーサーの母の方が呼びかけてきたからだ。

「本田さん」

「……はい」

母親の視線は菊には向けられておらず、窓の方へ注がれている。時刻はもう夕方で、部屋には西日が射していた。

「あの子も……不器用なところがあるでしょう。さぞや苦労なさるはずと始めは思っていたのだけれど」

「……始めは、ですか」

「そうです。甘える方法を教えられないまま育ってしまった息子の心を、貴方は開いた。今は……感謝しています」

ふっと窓から視線を外し、菊の方を見て彼女が僅かに微笑む。その表情にアーサーが重なり、菊は息を呑んだ。

「……そうじゃ、ないんです。私だってアーサーさんに救われたんです」

家を残すだけで精一杯な毎日を、あの雨の日は攫っていった。その代わりに菊の眼前へ広がったのは目まぐるしくも真新しい、刻一刻変化する空模様。そんな空の下を一緒に歩いていってくれるのは、やはりアーサー以外には考えきれない。

「……驚いた。本田さん、貴方って息子のことを人一倍愛してくれているのね」

愛、という単語に身を強張らせる菊を見て母親はぷっと吹き出し、慌ててそれを隠した。

「名は体を現すのでしょう。お恥ずかしい話、私は愛情の注ぎ方を知らなかった。貴方になら、あの子を預けられます。……あら失礼、その様子だとまだ伝えていないのかしら」

「……まだ、です。その、彼が私を親友だと思って信じていてくれているのなら、その想いを砕いてしまうことが私にとって一番恐ろしくて」

情けなくてすみません。頭を下げる菊の対面で、威厳のある声音でアーサーの母は語りかける。

「……情けないのはあの子も同じ。恋に敗れた後のことを思えばいっそと考えているのでしょうけれど、そんなもの愛を告げてから考えなさい」

自分はそれが出来なかったが、貴方のアーサーなら或いはと母親はぼかして付け足した。言い方こそ違うもののフランシスと同じような説教をされ、菊はついつい口元を綻ばせた。

「今回も、コンサートを無事成功で終わらせて。きっと上の息子は、それを見極めにきてるのでしょうから」

「もちろん、承知しています。きっと成功に終わると約束させてください」

そこで、純粋な疑問が菊の頭を過ぎった。

今回も、ということは前回のコンサートも観たのだろうかということを。

◾︎

 

「駒は揃った。手筈通りに」

 

『了解』

 

カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。

 

秒針が正確に時を刻む音だけが、コンクリート壁に反響する。

 

カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。

 

◾︎

3.

 

コンサート当日となり、朝イチの仕事をアーサーは単独でこなし、いざコンサート会場へマネージャーのハワードと向かおうとした時のことだった。さっきまでいたスタジオの方向が何やら騒々しく、二人揃って足を止めた。

「様子が気になりますね……少し話を聞いてきますので、駐車場の方で待っていてくださいますか」

「分かった」

ハワードから鍵を受け取り、片手で軽く遊びながら駐車場に入る。地下駐車場なために薄暗く、特にそれを気にすることなくアーサーは車を探す。

その時、だった。

「…………ッ!?」

アーサーはいきなり背後から羽交い締めにされ、車の鍵を取り落とした。反応する間もなく何か布のようなもので鼻と口を覆われて、なす術もなく身体がくず折れ———

「クッッッ、ソが……っっ!!」

———なかった。

羽交い締めにしてきた男の鳩尾へ肘鉄を食らわせ、パッと飛び退く。大富豪の息子ともなれば誘拐されかけたことも少なくなく、もしものための訓練すら受けてきたアーサーにはこの程度造作もなかった。それから放送局へ一旦戻ろうとしたアーサーを次に襲ったのは、頭への強い打撃だった。

「ぐッッ……!!」

目の前がチカチカと光り、脳震盪を起こしたアーサーにとどめを刺したのは首への一発だった。下手したら死にかねない所業をやり遂げ、何者かは床に倒れ伏したアーサーを乱雑に抱えると車に放り込んだ。やがて黒い煙をたてながら車は急発進し、後に残されたのは地面に転がった車の鍵のみであった。

 

 

「落ち着けハワード、それはお前のせいじゃない。車はそのままにしてタクシーでこっちへ迎え、金は俺が払う」

会場での打ち合わせの途中、席を外したギルベルトが何となく気になって様子を見にきた菊の耳に飛び込んできたのは、不穏な空気を匂わせる会話だった。一旦通話が終わるのを見計らって声を掛ける。

「どうか、なされたんですか」

「菊……」

眉を顰めて何やら逡巡していたギルベルトであったが、また真っ直ぐに菊へ視線を向けた。

「マズい事になった。主要メンバーには先に話すから、さっきの部屋に戻るぞ」

急ぎ足で引き返すギルベルトに続き、菊も逸る気持ちを抑えて走る。

「アーサーさんに何かあったんですか!」

「……そうだ。いいか、打ち明ける分には絶対に先走るんじゃねえぞ」

扉を勢いよく開け放ち、驚いているフランシスやルートといった面々の前にギルベルトは躍り出る。後ろ手で菊が扉を閉めるのを見届けた後に、赤い瞳に怒りを湛えてギルベルトは口を開いた。


 

「このタイミングでやりやがった。

……アーサーが、連れ去られた」






 

To be continued……▼

NANGOKUSHIKI

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