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1.

 

 

仕事からの帰り道、生憎の雨に降られた本田菊は片手に傘、手前に鞄を抱えるといった体で歩いていた。菊はとある事情により生活が苦しい身の上であるため、タクシーの運賃料に使えるお金などない。結果大雨の中の行軍と相成り、湿気でぼやける眼鏡を荷物の中に突っ込んで更に進む。身嗜みを整える時間さえ惜しいというように放置された、視界を覆う伸びすぎの前髪を掻き分ける。

「……あぁ……そういえば、失念しておりました……」

そこで初めて前髪の長さに気付いた菊は呟く。元来周りに気を遣う気性である菊がここまで身なりに無頓着になってしまったのには、実のところ理由がある。

幼い頃から祖母を育ての親と慕っていた菊であったが、そんな祖母も二年前に息を引き取った。暮らしている日本家屋を売って、これからの足しにした方がきっと良い。親戚たちは口々にそう菊を説得しようとしたが、この時ばかりは頑として譲らなかった。

好きなことをしなさい、と祖母は良く話していた。好きな道をお行きなさい。貴方が歩みたいと思える道を。

祖母は菊にとって、誰よりも尊敬できる存在だった。大切な老後の余生を菊のために捧げ、大学にまで通わせてくれた祖母。

だからこそ祖母のため、引いては自身のためにこの家を守り抜きたかった。維持が大変なのは分かっていたけれど、どうしても誰かに譲りたくはなかったのだ。菊に唯一残った、祖母との温かい記憶だけは手放さずにいたかった。

……お陰で毎日仕事に追われて身を削ることとなっても、それでも菊は満足していた。

だって彼には、帰る家さえあれば充分だったのだから。


 

ふと、傘の外へ視線をやる。もう直ぐそこに家が迫るというところで、珍しく人の気配がした。ここは少し寂れた通りであったから、通行人だってそう見かけないのだ。

「……何か、おかしい……」

その人は、傘も差さずにその場に立っていた。日本家屋の前でポツネンと佇む、金髪の青年。その異質さと、項垂れたまま固まっているその様子を怪訝に感じる。

「あの、」

思わず手を伸ばすと、青年はパッと顔をあげた。翡翠色の瞳と目が合う。身長から何となく察してはいたが、やはり外国人のようだった。その、何処かで見かけたような美貌に一瞬息が止まる。それからほたほたと髪先から垂れ、頬を伝っていく幾筋もの雨の滴に菊は胸を打たれた。

「……泣いて、いるんですか」

気付けば、菊は宙に手を伸ばしたままそう声に出していた。するりと日本語で話してしまってから、あらゆる方面で失礼だったのではと内心焦る。言葉を探しあぐねて視線を四方八方に飛ばしながら、菊は青年に傘を差し向ける。自分より背の高い人間へ伸ばすには少し無理があった。

「……ッ」

すると突如、陶器の人形のように動かなかった青年の表情が崩れた。引き結ばれた口から僅かに嗚咽の漏れる音が抜ける。それを察して菊はとうとう居ても立っても居られずに青年の腕を掴んだ。

「私の家、此処なんです。このままでは風邪を引いてしまいます、良かったら休んでいきませんか」

これではまるで口説いているようだ。そんなことを内心では思いながら、菊は青年の深い翠の瞳と目を合わせる。やがて青年が遠慮がちに頷き、それを見て取るや菊は安堵の息を吐いた。

 

 

「はい、すみません……急な用事が入ってしまいまして。本当に申し訳ありません、今度しっかり埋め合わせをしますので……はい、はい、ありがとうございます……」

相手側から電話が切れるまで待ち、菊はそっと携帯を耳から離す。昼間の仕事とは別にバイトを入れているのだが、今日の出来事で家から離れるわけにはいかなくなってしまった。しかし知り合いのいる割と気楽な環境だったために軽く了承してもらってほっと一息吐く。未だに開けるタイプの機種の携帯をパチンと閉じ、シャワー音のする風呂場を振り返る。

まさか、こんな奇天烈な出会いがあるとはと独りごち、夕食の支度に取り掛かる。どうせなら振舞おうと思い、まともな献立を立てて調理を開始した。家に一人だと自炊する気が起きないというのは、独りになってから実感するものだ。そのためにコストのかからないコンビニのお握りで済ませることも少なくなく、今は亡き祖母に叱られる自分の姿が目に浮かぶ。

偶然お裾分けにと貰った大根をとん、とん、と小気味好く切っていたところで、居間から静かな足音が聞こえた。振り返れば、気恥ずかしそうに菊の貸したジャージ姿の青年が立っている。やはりサイズは合っていないようで、その様子に菊はつい好々爺の程で微笑んだ。いけない、自分だってまだ若いというのに。

「まだ、言ってなかった、けど」

その時、視線を彷徨わせて青年はもごもごと言葉を口にした。意外にもしっかりした日本語に驚く。

「ここまで厄介になって……ありがと、な」

「いえ……どちらにせよ一人でしたので、厄介なんてことはありませんよ。もう少し待っていてください、夕食にしますから」

どうも菊まで照れ臭くなり、そう話してまた手元に集中する。

「……」

背後から視線を感じる。手伝おうかオロオロしている気配に、くすりと笑って声を掛けた。

「お客様なんですから、気にせず座って待っていてください」

「お、……おう。色々すまん」

見た目に似合わず堅苦しい、不釣り合いなその口調が何だかおかしかった。

 

 

誰かと食べる夕食は久しぶりだ。

青年は日本の暮らしに慣れているようで、器用に箸を使って食事をした。一口食べる度に目を輝かせては菊に尋ねてくるのも愛らしいとさえ感じる。これは何を使った料理なんだ、どうしたらこんなに美味く作れるんだ。それに一つ一つ丁寧な返事を菊が返すために、雨の音がじんわりと届いてくる室内を賑やかにした。

「あの……私も、ひとつ質問しても」

「ひとつじゃなくていい、何個でもしてくれ。……すまん、俺、話し過ぎたな」

一区切りついた頃、おずおずと窺う菊に青年は自身を反省するように苦笑いを浮かべる。いいえ、そんなことは、と菊は首を横に振った。

「お名前を、お聞きしてもよろしいでしょうか」

「……あ、あぁ、なまえ、名前な。いいぞ」

避けられない道に行き当たったとばかりに気詰まりそうな声をあげ、青年は息を吸った。何かに怯える顔が一瞬覗き、菊は発言を悔いる。深い事情がありそうな人物に聞くことではなかったかもしれないと思い直したのだ。

「あの、答えるのが難しいのでしたら」

「いや、話す。ここまで世話になってて、黙ってるのも失礼だ」

律儀に断りを入れ、伏し目がちに青年は口を開いた。睫毛が重たげに震える。

 

「俺はアーサー。アーサー・カークランドだ」

 

ぎゅっと拳を固く握り締めたアーサーと名乗る青年とは反対に、菊はその様子を変に思いながらも応答した。

「…………はい。お呼びする際はカークランドさん、でよろしいんでしょうか」

「え……? えっと、出来ればアーサーで……。いや、それであの、アナタ……? は、」

「本田菊といいます。呼び方はご自由に」

「……本田。もしかしてだな、俺の名前知らなかったりするのか……?」

動揺を隠せないといった程のアーサーを、やはり聞いたことはないと菊はこくりと頷く。引っかかりがないわけではないのだが、知り合いにそんな人物は確かいなかったはずだ。

「そ、うか……」

アーサーはまだ呆然としながらも、何処となく安堵しているように頷いた。何だかよく分からないが、もしかしたら知らないで逆に良かったのかもしれない。

「お言葉に甘えて、もうひとつ聞きたいことがあるのですが」

「いいぞ、何だ」

さっきより幾分か肩の力を抜いたアーサーに、菊は改まって質問する。

「アーサーさんは、その、何故こちらに……?」

菊の知る限り、この通りに居を構えているのはごく少ない。記した通り寂れた場所であるため、いくら都内と言えども周りに住むのは昔馴染みの老人くらいのものだ。そんな何の変哲もない住宅地を、若者が好んで通るはずがないのだ。アーサーが、何か言葉を探すように黙り込む。それからぽつりと溢した呟きは、恐らく事実だった。

「……逃げて、きたんだ」

「逃げて?」

「あぁ。全部放り出して、逃げ出してきた。それでその内に迷い込んで……雨が降ってきて、それで」

偶然、菊と出会った。

端々を濁らせてはいるが、それにやはり嘘はないのだろう。アーサーが何から逃走を計ったのか菊には及びのつかない話だが、脳裏に浮かぶ先ほどの捨て犬のように途方にくれる姿からすると悪人にはどうしてもみえない。

「……行く宛は、お有りですか。隠れる家や頼れる人は……」

「いない。そんな所があったら、こんなことにはそもそもならなかっただろうしな」

自嘲気味にアーサーは鼻で笑う。お椀の中の味噌汁は冷めかかっていた。

「でしたら」

そう言って、菊は一度言葉を切った。経済状況の悪い自分が、一時の同情で相手を揺さぶるだなんて身勝手だと思ったのだ。明日には別れを告げることが最大の相手への優しさだと分かっているのに、喉が震える。

結局は菊も、寂しかったのだろう。もう少し話せたらと願ってしまうほどに。

「……此処のお部屋をお貸ししますよ。生憎空き部屋なら多いですので……ただし」

いいのか、と驚きで目を丸くするアーサーを制す。ここで断られれば食い下がるのはやめようという思いで条件を付ける。

「お恥ずかしいことに、私は貧乏な身の上です。碌なおもてなしも、客人として振る舞ってあげることももう出来ないのです」

「ええっと……本田、それって当たり前じゃないのか」

「と、おっしゃいますと?」

頬を掻き、苦笑いを浮かべてアーサーは菊を見る。その顔は丁寧過ぎる菊を珍しがっているようにも映った。

「だから、俺を宿泊人として置いてくれるってことだろ? 俺は部屋を貸してくれるだけ嬉しいし、その分のお金は出すぞ」

最低限の持ち物は持ってきているのか、アーサーは財布を取り出すとそのままあろうことか財布ごと菊に押し付けた。

「謝辞として足りてる気はしないけど、貰ってくれ。本当に助かる」

その渡された財布の重みに菊はさっと顔を青くした。逃走時に詰め込んできたのか相当の額が入っているはずで、それを何の感慨もなく他人に寄越したアーサーが本気で心配になる。

「さすがにこんな……ええっと、そう、生活費を折半していただければ嬉しいです! それで充分ですから……!」

「けど、いつまでここにいるかも分からない人間だぞ。そんな厄介なの置いてて、生活費半分なんて変だろ。そう言うのなら全額払わせてくれ」

「あの、ですから」

冷や汗が止まらない。もしかして金銭感覚のおかしい人なのだろうかと勘繰る。どう言い含めようか考えあぐねている間にも時計は進む。取り敢えずお金のことは保留にしようと話を逸らすべく菊はおかずの茄子をアーサーにずいと差し出した。

「……一旦保留にしまして、どうです? もう冷めてしまってはいるのですが」

「あ、あぁ……?」

菊の押しの強さに負けてかアーサーはこくりと曖昧に頷きを返すと、箸先に摘まれた茄子をぱくりと食べた。

「ン、美味しいな。野菜炒めだよな、これ……」

ふんふんと噛み含むアーサーの興味が食に移り、菊はほっと胸を撫で下ろす。それと共に俗に言う『あーん』のやり取りを今日初めて出会った青年にしてしまったことに気付き、心中恥ずかしさではち切れそうになる。恋人がいた経験はあれどそこまで甘酸っぱい恋愛らしい恋愛などしたことがなかったために、人生初めての相手がこの青年だという事実がじわじわと襲い来る。

「……食べ終わったら食器はシンクに置いといてください。洗い物は後で私がします。お風呂、失礼します……」

「分かった。その、なんだ。本田も疲れてるのにごめんな?」

申し訳なさそうに縮こまるアーサーに、菊は気を緩ませて微笑んだ。あれしきで落ち込むのは大人気ないというものだ。

「いいえ、ごゆっくりなさってくださいね」

と言っても、暇つぶしになるようなものは何も置いていないのだが。

2.

 

 

その日、菊はたまたま携帯の電源を落とすのを忘れていた。

 

祖母が緊急搬送されたという連絡を受けたのは、大学の講義を受けている真っ最中の出来事であった。マナーモードに設定したおかげで幸い注目の的になる事態は避けたが、ポケットの振動音に菊は只ならない予感がして教室を抜け出した。それもそのはず、滅多なことで掛かってくるどころか、バイト先と大学の連絡先以外で個人として登録しているのは祖母のみだったのだ。そして押した応答ボタン、菊が挨拶をするより先に飛び込んできたのは、祖母の声ではなく親戚の叔父の声だった。祖母が倒れたと知るや菊は断りを入れて大学からまろび出るように退室し、普段ならば使うことのないタクシーを呼び止め病院へ急いだのである。

…………唯一救いがあったとすれば、祖母の最期の瞬間を看取れたことだろう。

不思議と涙は出なかった。

人は本当に悲しいと、途方に暮れるあまり泣くことも出来ないのだと思い知った。

独りになってもう二年が経つ。遺影の中の厳しくも優しかった祖母は、今日も菊に語りかけることなく微笑んでいる。

 

 

雨の日に始まった奇妙な同居生活は、意外にも順調に進んでいた。菊が仕事にいっている間はアーサーが家事を代わってくれるようになっていて、食事以外の家事はしっかりこなしてくれている。台所から漂ってきた焦げ臭い煙と食卓に出されたダークマターはこの先忘れられそうにない。ちなみに菊は食べきったものの次の日は身体を引きずるように出勤する事態となった。

 アーサーはたまに遠い目をすることがあって、何もない空間を黙って見上げていることがある。あれは怖いからやめてほしいと菊はこっそり思っていた。誰もいないはずなのに誰かと話している声が聞こえた時は記憶に鍵をかけたほどだ。

 

「本田って、お祖母さんと暮らしてたのか」

 

「は…………い……?」

日曜の、朝のことである。

突然のアーサーのトンデモ発言に、菊はカラン、と握っていた箸を取り落とした。

呆然となって瞬く菊に、アーサーはハッとなって罰が悪そうな顔をする。

……だっておかしい。菊は思う。アーサーに祖母の話をした覚えはない。咄嗟に言い繕おうとしてアーサーは何やらあうあうと口にしたが、良い誤魔化し方が見つからなかったのかやがて押し黙った。

「……すみません、アーサーさん。確認したいのですが、何時それを?」

頭が痛い思いをしながら菊がそう尋ねると、アーサーはウッと喉を詰まらせた。

「き、聞いたんだ」

「どなたに」

「…………そこの……」

ちらり、とアーサーが菊の背後に視線を遣る。隣の部屋の最奥には祖母の仏壇がある。当然、その部屋にアーサーを招いた覚えはない。まさかとは思っていたが、そのまさかの展開に背中に冷や汗が浮かんだ。

「そこの……?」

「……本田、顔色悪いぞ。やっぱり聞かない方が」

「いいえ、続けてください」

どこか縋るように菊はアーサーに迫った。日曜とて暇ではなく、内職に精を出さねばならない。しかし何よりも優先すべき事項が目先にある以上仕事のことは脇に置く。直感で、アーサーの言葉が嘘ではないと感じとった故だ。

「さ、先に言っておくと、別に幽霊が見えるとかそんな、非現実的な話じゃないからな」

慌てた風に前置きをして、それからアーサーは渋々と口火を切った。

「俺は元々、ボンヤリとそれっぽい気配が分かったりとか、一般人の中にも何名か混ざってるくらいの、ちょっと気配に敏感なだけの性質で……」

 

 

その気配を、家に訪れた時点でアーサーは察していた。ぴったりと閉ざされた襖の内側……何の変哲もない仕切りのようで、そこには夢の残骸のような思念が漂っていた。

だから、気になったのだ。

特別言い付けられているわけでもなかったが、何となくいけないことのような気がして、アーサーは菊が仕事に行っている間にその襖をそうっと開いた。逃げるでもなく、その温かい気配は空間に存在していた。それも仏壇の前が殊更気配が強く、あまりにも堂々としたものだからアーサーは口の端をつい緩めた。ゆっくりと仏壇へ近付くと、依然と微笑む老婆の写真が立て掛けてあった。それで菊には祖母がいたのだと合点がいく。

その時、誰かの声らしきそよ風がアーサーの耳元を擦り抜けていった。反射で振り向くもそこには誰もおらず、風が入り込んできたにしては真後ろ過ぎた。

「そうか……」

またアーサーは仏壇に向き直る。貴方か、と尋ねると、空間の気配が首肯するように流れを変えた。

「突然本田……と、姓だとおかしいか……菊に迷惑を掛ける形になって、すみません。まだ暫くお世話になるかもしれません」

少しだけ面目の無さに歯切れの悪い挨拶になる。次はそんなアーサーを笑うように、大らかに空気が……僅かだが震える。

そんなやり取りを、アーサーは菊のいない昼間に菊の亡き祖母と交わしていたのである。

 

 

「やっぱり、おかしいよな。気味が悪いと思われて、追い出されるんじゃないかって黙ってたんだ。卑怯だよな、ごめん……」

「いいえ、そもそも私は部屋に入っていけないとは話していませんでしたし……それに、何も貴方の話が嘘だとは思っていません」

突拍子もない話ではあるが、アーサーが嘘を吐くような人間には菊には思えない。築き始めている信頼を土台にそう返すと、アーサーは呆気に取られたように菊をまじまじと見つめてきた。

「えっと……出て行ってくれとか、言わないのか」

「言いませんとも。そもそも、折半させてもらっている時点でここは貴方の家でもあると私は考えていたのですが、さすがに押し付けがましいでしょうか……?」

「そ、そんなこと!」

卓袱台がダンッと大きな音をたてた。アーサーが手をついて勢いよく腰を浮かせた所為によるもので、アーサーはハッとなって赤面する。

「す、すまん」

「ふっ」

思わず菊は吹き出し、肩を震わせて笑い出した。オロオロと眺めているアーサーの手前申し訳なかったが、どうしても笑いが止まらない。そうしていたら、涙が出てきた。笑い過ぎたからなのか、祖母との日々が唐突に脳裏に蘇ったからなのか判然としないまま、長らく泣くことを知らなかった両眼が後から後から涙を落とす。途端生真面目な顔になって、菊の方に周ってきたアーサーがその背中に恐る恐る触れた。小さな弟でもいたのか、アーサーに撫でられると不思議に気分が落ち着いてくる。

休日の晴れた朝にこんこんと悲しくて流す涙は、頬に温かかった。今、身に降りかかる不幸など、全て薙ぎ払える気さえして、隣にいるアーサーにありがとうと微笑む。多少面食らった顔でぎこちなく返された笑みに、胸の奥底が刺激されたことを菊はその時気付くことはなかった。

 

菊の言語化できない祖母への心残りは、こうして温い涙によって溶かされたのだった。

3.

 

 

雨が、降っている。

始めはアスファルトに小さな染みを作る程度だった雨が次第に勢いを強め、あっという間に辺りは雨煙に覆われた。これでは菊も帰るに帰れないだろうと考え、アーサーは厚手のパーカーを拝借して被った後に傘立てから二本、傘を抜く。ひとつは年季の入った古い型だったが、確認したところ骨組みはしっかりしていた。

少し外出するくらいならば問題は無いだろうと自身に言い聞かせ、そっと玄関を出る。外出ひとつで怯えている現状が情けなく、勇気を振り絞り一歩目を踏み出した。

そこで、風が吹き荒ぶ。

よく知る甘ったるい匂いが鼻を突き、がちりと身体が硬直する。まさか、そんな、どうして。バクバクと脈拍が上がり、そろそろと後ずさる。あの金色が瞳に映る前に、と逸る心臓を抑えてまた家の中へ逆戻りした。

そのまま玄関先にへたり込み、抱えたままの二本の傘をぎゅっと胸に搔き抱く。

段々と、呼吸が浅くなっていった。

ヒュー、ヒュー、と喉から音が漏れ、冷や汗が額から滑り落ちる。厭に身体が寒い。

 

駄目だ、俺は本田を迎えに行かなくちゃいけないのに。

 

でも、この場所が見つかってしまった。いつ屋敷の中に入ってくるか分からない。菊がきっと困っていることが脳裏に何度もチラついた。それでも、力が抜けて起き上がることすら出来ないのだ。情けなかった。必死に息を殺すことにもう精一杯で、途方に暮れてしまう。

 

雨が、降っている。


 

 

「最近は良く外れますね……」

天気予報の裏切りに合い、バシャバシャと音をたてて鞄を盾にしながら帰路を走る。滅多なことに折り畳み傘を部屋か何処かに置き忘れたらしく、鞄を傘にする他ない状態だった。やっと家が見えてきた頃、門の前に人影を捉える。洒落た傘を差してぼうっと家の方を伺っているのはまたも長身の外人男性で、彼の知り合いだろうかと考える。

「あの」

ずぶ濡れのまま話しかけることに躊躇いを持ちつつ、側をすり抜けるのもどうかと思い声を掛けた。輝くような金髪のその人は、菊の登場にいくらか驚いて瞬きする。

「やぁ。実はさっきから人っ子ひとり通らないから、道で会ったのは君が初めてだよ。それで、君は随分雨に降られたようだけど、どうかしたかな」

それから軽やかなリズムで返されて、次に面食らったのは菊だった。初対面の人を相手に実に軽快なトークだ。

「私は、ここに住んでいるものなのですが……先ほどから家の方を見つめていましたよね、何かご用でしょうか」

おずおずと応えると、男は合点がいったように頷いた。傘に招く仕草を菊に示したが、それは遠慮しておく。

「そっか、残念。ええっと、それで本題だけど……人を、捜してるんだ。何ヶ月か前に行方不明になって、まだ見つかってない。聞き込みを続けていたらどうやらこの地区で似た姿を見たって人がちらほらいて、捜しに来たってわけさ」

「……なるほど」

菊は首肯し、暫し思考に耽る。それならば恐らく……というよりも、十中八九アーサーに間違いない。逃げてきたんだ、というアーサーの沈んだ声が蘇る。何か理由があるにしろ、ここで安易に名前を出すわけにもいかない。

「どう? 心当たり、ある? 」

茶目っ気を交えて男は尋ねてきた。口元にこそ笑みは浮かんでいるが、家の住人だと名乗ったところから菊に当たりを付けているのは明白だ。

「ありませんね。お力になれず、実にすみません」

すげなく返事をし、そうして何か言いたそうに口を開いた男より先に言葉を続ける。

「ただ、もう数日、間を空けて来てもらえれば違う返事が出来るかもしれません。名前だけでも教えていただけますか」

ふっ……と観念したように男は息を吐き出し、複雑な表情で微笑んだ。懐から何か写真を取り出し、菊の手に握らせる。

「俺の名前はフランシス・ボヌフォア。芸能界隈ではそれなりに名を馳せてるよ。そして……」

菊は写真に目を落とし、それからハッとする。アーサー・カークランド……と、男が彼の名を口にした。雑誌に目を向ける余裕さえ日々なかったせいか気付けなかった、既視感の正体を掴む。

 

アーサーは、この眼前にいる男同様、大手芸能事務所出身のモデルだったのだ。

 

「じゃ、言われた通り今日のところは退散するよ。連絡先だけでも教えてくれるかい」

「え……ええ、構いませんよ」

ピースが合わさったばかりのパズルを前に半ば呆然としていた菊は、無理矢理頭を切り替えてフランシスに携帯を見せた。やはり今時ガラケーは珍しいらしく、手にとって眺められる。

「あの、そろそろ寒くなってきましたので、出来ればお早めに……」

「おっと、ごめんごめん。えーっと……」

フランシスは器用にも傘を肩で押さえ、両手で携帯を操作した。それから暫くして菊に携帯を返却する。少し手間取っていたようだから、元々機械には強くないのかもしれない。職業柄どうにか身につけたのだろう。

「あのさ」

「はい?」

「……何も知らないなら、聞き流してもらっていい。……俺を信じてみないかって……アイツに伝えといてほしい」

やはり気づかれていたか、と思いながら、この人ならば問題は無いだろうという気持ちが菊には何故だかあった。フランシスから伝わってくるのは、身内を案じる痛いほどの情だったから。

「それでは、後日」

敢えて応答せずに菊はそう返し、フランシスはメルシー、とだけ言って軽やかに手を振った。フランシスが屋敷から遠ざかった頃に菊は素早く身を返し、濡れそぼった自身の姿も顧みず玄関の引き戸を開けた。

「アーサーさ……!」

即座にアーサーの姿を探そうと玄関に足を踏み入れたところで、傘を抱えて蹲っているアーサーが目に入った。肩に触れると、ビクリと身体が跳ねた。

「フランシスさんなら、もうお帰りになられましたよ。ひとまず上がりましょう、ここにいてはお身体が冷えてしまいます」

「……ッ、お前だって」

ぽたぽたと前髪から雨粒を落としている菊の前髪を、反射だろうがイギリスが搔き上げた。そこで一瞬魅入ったように表情が静かになり、その内にと菊はアーサー共々居間へ移動する。

「……ごめん、本田」

「何か謝るようなことが……?」

「傘、持っていこうとしたんだ。それなのに俺、情けなくて」

掠れた声で、言葉尻はほとんど聞き取れない程度の小さな呻きだった。それでも菊は熱心に言葉を拾い、そっとアーサーの手に触れる。お互い驚くほどに冷えきっていた。

「それよりも、お気遣いいただけたことが私にとっては嬉しい報告です。偶然お知り合いと顔を合わせてしまっては、身を隠しているアーサーさんとしては不都合でしょう? ですから、当然何の問題も起きません」

何度も思案するように言葉を途切らせながら、菊はゆっくりと語りかける。それが少しは効果があったのか、アーサーの表情がいくらか弛む。

「……アイツの名前知ってるってことは、ちょっとは事情聞いたんだろ。ちゃんと話すから、その前に」

「その前に? 」

話す姿勢になりつつあるアーサーを待っていた菊に、キッパリとアーサーは告げる。

「風呂。入ってきてくれ」

寒いだろ、とアーサーは、苦味の混ざるぎこちない微笑みを浮かべて言った。

 

 

「俺がイギリスから日本に移り住んだのは、15歳の頃だった」

 

アーサーが、勝手が分からないだけに懸命に作ってくれたらしい湯呑みの中の緑茶を菊は啜る。それから15歳といえば、およそ中学3年生くらいだろうかと思案した。日本では高校受験が差し迫った大切な時期なのだが、アーサーはその時期に移住してきたと話す。そこの事情は省いて、アーサーは直ぐ時を進めた。

「モデルの仕事を始めたのは、16の頃だ。フランシスに誘われて気分転換に始めた仕事だったけど、その内に高校を卒業したら本格的に活動していこうって考えるようになってたんだ」

それで、と一旦言葉を区切り、湯呑みをキュッと包んだ。まだ戸惑っているかのように、言葉が微かに震えを帯びている。

「それで俺は現在23なんだが……順調にいってたんだ、今までは。なのに……」

歯嚙みし、悔しそうに目を瞑る。そして開いた瞳は言語化できないほどの複雑な色彩いろが浮かんでいた。彼には本当に逃げ道がなかったのだと、それで悟る。

疑念と諦念が混ざり合って尚強く踏み締めていた地面が、ある日薄氷であったと気付いて恐ろしくなったのだと、暗にアーサーは訴えていた。きっと誰も知らなかった。或いは知らない振りをしたのか、そこまでは菊には読めない。けれども、その身体の内側は確かに砕けてしまった。逃亡を選んだのは実のところ、ボロボロの彼に残った決死の生存本能だったのかもしれない。

「俺の家は海外の大手企業にも通じてて、俺が所属してた事務所も言うなれば分家のひとつだったんだ。息苦しい家から抜け出してやっと居場所を見つけたつもりになって、結局はまだ箱の中だったってわけだ。笑えるだろ」

自棄になってアーサーは乾いた笑い声をたてる。不甲斐ないと思いながらも、菊は掛ける言葉が見つからなかった。

「……そのことから目を逸らし続けてた俺に、本家から連絡が入った。俺は4人いる兄弟の中では末っ子で、ずっと放任してた癖に突然の帰国命令だ、従えるわけがない。だけどどちらにせよ、事務所自体が囲われている時点で拒否したところで仕事を続けることも不可能だと思った」

誰かに相談しようにも、事務所の人間に話せば直ぐ身内に伝わってしまうだろうし、近しいフランシスだって分家の人間だ。正に八方塞がりで、手段を失くしたアーサーは咄嗟に行動を起こした。必要最低限の荷物と『もしものために』と少しずつ銀行から下ろして保管していたお金を持って、住んでいたマンションを飛び出したのだ。そこからは行き先もなく、ただ闇から抜け出そうとひたすらに走った。追い縋る黒を裂き、白い明日へ、明日へ、明日へ!

「足のつかないように慎重に乗り物を乗り継いで、走って。その内雨が降ってきて、体力の限界がきた。行く場所なんて本当になかったから、途方に暮れてたんだ。段々頭がぼうっとしてきた頃に、お前が助けてくれた」

ありがとう、とアーサーは頭を下げた。混じり気のない感謝に、菊はそんな、と声をあげる。

「重く受け止めてもらえるほど、大それたことはしていません。それこそ偶然の出会いでしたし、私の生活を助けてくれたのはむしろアーサーさんです」

「受け止め方なんて人それぞれだ。それにお前は謙虚過ぎる。その……俺に手を差し伸べてくれたのは、事実だろ」

傷心のアーサーにとって、自信を刺すように降っていた雨が包むものに変化したその瞬間は何よりも尊い希望だった。菊が涙を流した日、ぎこちなくその背に触れて、アーサーもたまらなく泣きたい気持ちになったのだ。

樹の虚で雨上がりを待つ二匹の動物。決して独りじゃない、晴れ間は覗くものだと虹を信じることが出来た。

「ありがとう、本田。……お陰で最後に良い思い出が作れた。俺は国に帰ることになると思う。情けない話、まだ怖いんだ。本国で待ち構えてる兄貴達が……カークランド家が。もう逃げれないんだと分かって、心底胃の腑が冷えた」

握り締めたままの拳はまだ震えている。してやれるなら抱き締めてあげたかった。でもそれはあまりに無責任で、菊はそうすることができない。アーサーの決断を受け止める意外に道はなかった。

「お辛いことがあれば、遠慮なく連絡してください。話し相手になることしか、私には……」

アーサーは首を横に振った。それで充分だと微笑むように。

 

 

「手間を掛けさせてすみません、どうぞ中へ」

ボンジュール、と挨拶をするフランシスにお辞儀をして、菊は家中へ招き入れる。居間にはアーサーが座っていて、それを見たフランシスはふっと吐息を溢した。苦笑とも、安堵とも取れる笑みだった。

「久しぶりアーサー。全く、お前がボイコットしたせいで俺、自分でも驚くくらい働いたよ? 何処かでこのツケ返してもらうからね」

怒るでもなくふざけた口調でフランシスはアーサーに声を掛け、菊に勧められた通りアーサーとは対面の卓の方に腰を下ろした。

「……申し訳ないと思ってる」

「なぁに、しおらしくなっちゃって。そっちの方がまだ可愛げあるかもしれないけど、お前らしくはないよ。そんな堅い謝罪は抜きにして……」

バン、と卓袱台から身を乗り出し、フランシスはアーサーの顎を持ち上げる。お茶の用意をしていた菊は唖然としてその光景を眺めた。

「この俺にどうしてほしいか言え。どうせお前のことだから、分家の人間って理由で俺まで選択肢から消したんだろ? 舐めるなよ、俺は家の中で飼われるほど弱くない」

「…………ッ!」

何か言いたげにアーサーの唇が震える。追い詰められた人間にそんな思考の余裕があると思うなと、現にフランシスへ訴えていた。口にしないのはやはり、フランシスを裏切った相応の後ろめたさがあるからだろう。

「国に残りたいならそう言えばいい、何もかも捨ててカークランド家の縁のない地へ逃げ出したかったのなら……」

唇を噛み、様々な感情がない交ぜになったフランシスの表情がアーサーの瞳に映る。声を絞って、フランシスは続きを口にした。

 

「ただ一言、俺に助けろと言ってほしかった……!」

 

……あ、とアーサーから声が漏れた。片目からするりと何かが抜け落ちたかのような涙を溢す。良かった。菊はそれを、黙って見つめていた。アーサーは一人きりではなかった。それをただ良かったと、そう安堵した。

そこに自分が、居ないのだとしても。

 

 

ツテがある、と言ってフランシスはこれからのことをアーサーに話した。本家と所属事務所はどうにか誤魔化すから、その時は謝罪に一緒に来られるのならば来ること。モデルを続けたいのなら知り合いの事務所があるからそこに移籍する手もあるということ。

「悔しいことに、お前はここで止まるのに惜しい人材だ。芸能の道で生きるべき人間だよ」

始めは息抜きにと引き入れたモデル業だったが、アーサーの芸術性を評価し続けているのは紛れもないフランシスだ。だから許される範囲で援助してやる、とアーサーに伝え、ひとまず都心に戻ることが決まった。

 

「じゃあ……またな、本田」

寂しそうに、アーサーが菊へ微笑んだ。ええ、と菊は頷く。先ほどから元気がないことを心配するアーサーの素振りが温かくて僅かに笑む。フランシスがありがとね、と菊に告げて踵を返した。それに続いて、アーサーも門の外へ出て行った。

 

またな、本田。

 

菊の中でその声がこだまする。それから遡るように、様々な記憶が脳裏をチラつく。

 

迷子のこどものように揺れていた瞳。

菊の料理を美味しいと笑う口元。

背を撫でる温かい手のひら。

それから、それから、それから……。

 

気付けば菊は弾けるように走り出していた。門を飛び出て、二人が降りていった坂を息急き切って走り出した。菊の中であんなにも煌めいた毎日は、鮮やかになった日々は、偏にアーサーあってのものだった。無責任だとか、自分勝手だとか、そんな理性を蹴飛ばしてあの妖精を追う。アーサーさん、アーサーさん、アーサーさん!私は……!やっと捉えた背中、アーサーが振り返る。瞠目するその手を取り、菊は深く息を吸い込んだ。

 

「私は、貴方がいれば何もいらない!」

 

へ、と間抜けな声がアーサーから漏れる。それから真っ赤になったアーサーの手を更に握り締め、彼しか目に入らずに想いの丈をぶつける。

「見当違いなことは分かっています、それでも貴方のいない世界を思うと耐えられないんです……! 身勝手なことも承知しています、それでも!」

祈るように、菊はその場に膝を着いた。ぎょっとしたように慌ててアーサーもしゃがむ。その腰を抱き寄せ、胸板に顔を押し付けて菊は溢した。

「側に、いてくれませんか……」

屋敷を留めたのが菊にとっての意地と誇りのある我が侭だったのなら、この願いは依存と欲に塗れた自分のためだけの我が侭だ。アーサーだって大変な時期なのに、先に菊の方が決壊してしまった。きっと優しい彼は困るのに、と自分をなじる。

「キ、ク」

アーサーが、ぎこちなく菊の名前を呼んだ。その鼓動が乱暴に鳴っていることが身の内に伝わってきて、菊はそっと身体を離した。アーサーは片腕で口元を覆い、耳まで紅くしてそっぽを向いている。まるで恋する少年のようだ。

「俺も……お前がいてくれた方が、嬉しい。だから、頼みがあるんだが……」

ハァーッと息を吐き出し、膝に力を入れてアーサーは立ち上がった。座り込んだままの菊へ手を差し伸べ、嬉しくてたまらないというようにはにかんで。

 

「一緒に、行こう……!」

 

眩しい光に目を細め、菊もまたその手を取る。立ち上がる瞬間にしっかりと答えた。

 

「喜んで!」


 

こうして、彼らの物語は幕を開ける。どの豪華な舞台にも負けない、内から光るキラキラとした星を懸命に輝かせながら、まだ何も咲い

                                              

ていないふたりの庭(ステージ)へ種を蒔く。

誰も辿り着いたことのない陽だまりの庭を目指し、彼らは始めのステップを踏んだ……。






 

To be continued……▼

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