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ノクターン

 

(ロヴィ+アサ)

 

今でも思い出すものがある。祖父の逞しい背中、その腕の中で擽ったそうに笑う弟と、それを遠くから睨みつけている幼い自分自身の姿だ。両親は物心ついた時には既に交通事故で他界していて、大きな家を支え続けられるのも祖父の力あってのものだった。絵画の腕も人付き合いも、いつだって弟が先んじていて。だからだろう、遅れて走る俺は祖父の背中ばかりが記憶に焼き付いているのだ。

けれど、幸せな毎日だったと思う。退屈だが平穏に満ち、身に抱えた劣等感さえ抑えつければ不自由なく暮らせていた。

やがて祖父が死に、それからは転落劇が口を開けて俺たちを待っていた。俺は握られていた弟の手を離して他家へと渡り、それ以降の何年間かは弟の行方すらはっきり知らずに日々を過ごすこととなる。

カリエドの家は当時、全盛期の祖父の会社には劣るが大財閥といっても過言ではない企業で、そこの長男であるアントーニョは金持ちであることを鼻にかけず、そしてやけに陽気な変人だった。始めはとにかくうざったくて嫌がらせをして追い返そうとしたのも一度や二度ではないのだが、その後はどうしてか何をしても構ってくる奇異な存在と認識を改めることになる。

「お前は俺の子分やから」

俺に本気で腹を立てた日も、何故だか次の日にはまた突っかかってくる。暴言を交えて理由を聞いても、返ってくるのはそんなふざけた解答ばかりで。誰がいつお前の子分になったんだとか聞きたいことは色々あったが、結局は毎度この論争に折れるのは自分だったと思う。太陽みたいなアイツの笑顔に、きっと俺は救われていたのだ。

 

 

「兄ちゃん、置いてかないでよぉ」

「うっせぇな、お前がノロマだからだろ!」

へろへろと小走りで俺を追いかけながら、高校生にもなって弟のフェリシアーノは情けなく鼻を啜った。全く、こんな極東の地で再会した時には目を疑ったものである。否、見た目に大した差異はないが、中身はまるで入れ替えたかのごとく薄っぺらくなってしまっていたからだ。何というか、芯だけ抜けてしまったかのようにペラペラに。

校舎のチャイムが坂の上から鳴り響く。俺は更に速度を上げ、それをフェリシアーノが慌てて着いてくる。最後の余韻と共に校門を潜り、パッと横を見れば渋い顔の生徒会長がいらっしゃった。

「またお前らかヴァルガス兄弟。今回で何回目の遅刻だ?」

「ハ……ハハ……あの、今のってアウトですかね……?」

「……ゴールは教室だバカ」

「ちぎっ!」

容赦なく名簿で後頭部を叩かれ、悲鳴をあげる。後から遅れてやってきたフェリシアーノにも平等に制裁が下され、二人して頭を垂れた。

「どんな弟が入ってくるかと思えばまた問題児だ、あまり俺の仕事を増やすなよ」

「ハイ……すみません……」

「ごめんなさぁい……」

生徒会長ことアーサー様は、重いため息を吐き出した後に体育館の方をペンで指し示した。遅刻ゼロ週間、と書かれた腕章が目に痛い。

「今日は朝会がある。急げよ」

何が悲しく弟と揃って登校しなければならないのか。それに、自分よりも弟の方が少し背が高いことも気に入らない。

明日からは目覚ましを使おうと心に誓った。

 

カリエド社が倒産し、第二の場所をも奪われて渡ったのは日本だった。そこで待っていたのが件の別人になった弟で、一緒にまた暮らすことになって三年は経つが未だにフェリシアーノの言動は理解できないことばかりだ。それでいて絵画と料理の腕前を上げている所は腹立たしいことこの上ない。フェリシアーノが入学してくる前に俺は美術部を辞め、放課後は用事がなければ直ぐに帰った。顔が似ている所為で放課後暴れ回っているフェリシアーノと勘違いされて迷惑を被った経験をもう何度もしているからだ。

「うわっ」

生徒玄関を出た花壇側の方からふと誰かが声を上げた。止せばいいのに俺は何となく気になって角を曲がり、それから自身の行動を悔い改めることとなる。

「…………」

「ん……? な、何見てんだよっ」

気配に気付いて振り返った我が校の生徒会長は見事に水浸しで、地面には絡まったホースが無為に水たまりを作ろうとしている。さすがにこの光景を前にして放置は出来ず、繋がれた先の蛇口を一旦閉めにいく。秋口の風は夕方にもなると少し肌寒い。制服の白いシャツを懸命に絞るアーサーはくしゃみを一つした。

「悪ィな」

「いや……何でそんなことに……?」

距離を保って恐る恐るに尋ねると、鼻を啜りながらアーサーは気難しげな顔になる。慌てて謝ろうとしたところに返答が返ってきた。

「メジロが」

「メジロ……?」

そこで止められては分からない。首を傾げる俺を視界から外すようにそっぽを向き、もごもごと呟くアーサー。

「メジロが……止まってたんだよ」

「はい……?」

「だから、あそこの樹に……!」

パッと、背がひょろ長い樹を指差したアーサーと視線がかち合う。すると見る見るアーサーの顔は紅潮し、口はわなわなと震え出した。ついに怒ったのだろうか、怖い。

「少しぼーっとしてただけだ! もういいだろ!」

「は、はいぃ!! すみません!!」

勢いよく頭を下げ、ちらりとアーサーの表情を確認する。複雑そうに引き結ばれる唇はしかしまた戦慄き、くしゃみをした。段々不憫に思えてきてスクールバッグの中から俺はジャージを取り出し、暫しの逡巡の後アーサーに差し出した。

「……何だよ」

「体育補習で、着てないです。帰り、寒いと思うんで……」

アーサーが俺の手元をじっと見つめてきた。頼むから早く受け取るか、断るかしてくれと念じる。遠慮がちに伸ばされた腕は受け取ることを選択したらしく、アーサーが掴んだところで俺は手を離した。

「ありがとな」

「へ」

予想外にもお礼を言われ、一瞬呆ける。校舎内ではフェリシアーノがまた騒動を引き起こしているのかどこかで破裂音が弾けた。

「じ、じゃあ俺はこれで!」

愛想笑いもそこそこに校門に向かって駆け出す。これといった特技のない俺だが、逃げ足には多大なる自信があった。

 

 

生徒会長を務めるほどの成績優秀者であり、家は金持ちで人気モデルとして活躍するスペックまで持ち合わせていながらアーサーの周りには人がいない。カリスマにも種別があるのか、当てはめるとしたらアーサーは多を圧倒して従えるタイプのカリスマと言えた。それを本人がどう思っているのかは知らないが、家柄の影響が大きいんじゃないかと俺は考えている。血筋で友人を選ばないアントーニョでさえライバル社には対抗意識が少なからずあったようで、カークランド家の話をする時は雰囲気が鋭くなった。

「カークランドの四兄弟には、出来るだけ近付かん方がええよ」

膝をつき、俺と目線を合わせてアントーニョはよく繰り返した。彼らと幼い頃から交流があるために気付けた、アントーニョの知る仮面の裏側の話。

「あの兄弟は、身の内に悪魔を飼っている」


 

「書けねぇよな……」

机に広げた便箋を前にして深々とため息を吐く。家に帰るとマンションのポストにアントーニョからのエアメールが届いていて、明るい調子で近況が綴られていた。携帯も使えない状況で律儀に手紙を寄越すのは異国に渡った弟分を気に掛けていてくれるからだろうと思うとむず痒い。もしかしたら、日本に行けるかもしれないと手紙には書かれていた。何でも暫く会っていなかった古馴染みと再会して、便宜を図ってくれる可能性があるのだとか。能天気なアイツのことだ、甘言に騙されていないかと半信半疑に文字を読み返す。

その返信の書き出しは難なく進め、近況報告の途中でペンが止まった。アントーニョにも打ち明けていない点があって、それは正しく例の生徒会長のことである。まさか入学してみたらそこにカリエド家天敵の悪魔が幅を利かせていたとは思うまい。簡単には明かさず日だけを重ねて気付けば高校生活も二年目だ。その末弟の悪魔に今日ジャージを貸しました、なんて嘘でも書けるはずがない。

「兄ちゃんただいまぁ……あれ、手紙書いてるの?」

「お前の分はリビングのテーブルに置いてある」

その差出人は確か、エリザベータだ。日本に来た直後は弟に加えローデリヒとエリザベータと共に生活していたが、ローデリヒは世界に名高い音楽家である。元々公演のための来日だったらしく、期間が終われば次の国に渡る。

「俺、残るよ」

次の国に発つ予定が話される途中、フェリシアーノは何を思ったのか二人にそう告げた。着いて行く気はなかった俺が、同じようなことを宣言する前に。

「兄ちゃんと、二人で暮らすんだ」

あの時のフェリシアーノの横顔には、確かに昔日の面影があった。

 

「……兄ちゃん?」

「ウワッ! なんだよ、勝手に見るんじゃねーよちくしょー!」

「よ、読んではないよぉ……そうじゃなくて、夕食はどうするの」

机の上を隠すように腕で覆う。フェリシアーノは俺の剣幕に後退りつつそう尋ねた。その手には出前のチラシが何枚か握られている。

「外で食う。お前も勝手にしろ」

「そっかぁ……うん、そうする」

フェリシアーノが項垂れるのが分かったが、俺は気付かないフリをして財布を持つとマンションを後にした。この頃、ストレス発散の捌け口が夜遊びに興じることになっていた。朝には冷める泡沫の夢だ。知っている。

 

 

次の日、寝こけている弟は一応蹴起こしてから早めに登校すると俺の席に謎の紙袋が置かれていた。かなり大手ブランドの紙袋に怖気付きながらそっと中を覗くと、何かの塊……ではなく、俺のジャージが入っている。もしや、これは。口の端を引きつらせて几帳面に畳まれた上着を引きずり出す。紙袋の一番下には箱が隠されており、それを開けると高価そうな時計が顔を覗かせた。

「……」

ぱかん。即閉じると、何事もなかったかのように鞄に紙袋ごと詰める。金持ちの金銭感覚は本当に恐ろしいものだと痛感した。

 

「アーサー様!」

「……あ?」

放課後、ちょうど廊下を歩いていたアーサーを見つけて思わず声を上げていた。そんな自分に後悔するも、気持ちを奮い立たせてアーサーの近くまで移動する。

「ジャージ、洗って返してくれたことはありがたいんですけど……あの、これは」

慎重に時計の入った箱を取り出すと、アーサーは不思議そうに首を傾げた。何を思ってその反応を返したのか意図が全く掴めない。

「時計だが、それが?」

「ジャージ貸したくらいで受け取れません」

「いや……仕事で貰ったもので使わないから取っておいたやつだ。どうせ埃かぶるくらいなら時計として使ってあげた方がいいだろ。丁度いいから貰っとけ」

「けど」

食い下がる俺に、アーサーが渋い顔になる。次こそ不機嫌にさせたと思って足が震えた。

「……そんなビビんなよ。悪かったな、押し付けて。要らないなら返してくれてもいい。そうじゃなきゃ弟にでもあげろ」

「すみません」

謝罪が口をついて出る。一瞬傷付いた顔をされた気がして、慌てて訂正のために口を開けた。

「そうじゃなくて! あの、俺が貰います! その……ビビってすみません……?」

「……何だよ、それ」

ぷっ、と吹き出し音が聞こえて目を見張る。それもそうだ、あのアーサーが笑う場面など今まで目にしたこともないのだから。

「昨日は助かった。じゃあな」

「あ、いや……俺も……」

ありがとうございます。声には出せず、言葉は空気となって空中に霧散した。

 

 

夜、外を彷徨く傍ら本屋に寄ってみた。雑誌のコーナーへ隠れるように身を滑らせ、周囲に同級生がいないことを確認しながらアーサーが載っている雑誌を探した。

「マジか……」

それは直ぐに見つかって、ティーンながらに見劣りすることなく大人向けのファッション雑誌の表紙を飾っていた。こう見ると本当に別世界の人間で、ついさっき言葉を交わしたことが現実に思えなくなる。ペアの男にはどこと無く見覚えがあった。

「あの……すみません、もう閉店の時間ですよ」

「え」

顔を上げると、店員らしいエプロンを着けた黒髪の男が隣に立っていた。慌てて時間を確認すると、確かに時計はもう二十二時を指し示している。

「すんません」

「いえ……あ、会計はまだ出来ますが、その本は買われていきますか」

「……」

暫く悩んで、このまま手ぶらに出るわけにもいかずにレジまで移動する。店員の男はほんの微かに感じ良く微笑んだ。手書きのネームプレートを珍しく感じて一瞥すると、「本田」とだけはっきりした字で書かれていた。


 

その夜は雑誌の入った袋がやけに気にかかって、夜遊び仲間とふざけていても何処か上の空で楽しめなかった。途中で仲間とは別れ、よく知らない裏路地で煙草をふかす。月光を頼りに雑誌を読もうとしたところで突然視界に影が差した。

見上げた先には、月光を背景に、人が。

 

「……ロヴィーノ?」

 

死んだ、と思った。

「お前……」

男が……アーサーが、靴先でコンクリートを擦る音をたてる。全身を強張らせ死を覚悟している俺を呆けたように見つめ、瞬きをする。

「おい」

「ヒィッ!すみませんすみません命だけは勘弁してくださいアーサー様!」

「殺さねぇし大声で名前呼ぶなよ。様付けもやめろ。……それ、いいから一本寄越せ」

「へっ? あっ、はい」

言われるがまま煙草を一本渡す。「火」と告げられ震える手でライターを握った。これではヤクザ映画の一幕のようだ。

「…………」

長い沈黙と、白い煙が狭い路地を満たす。さすがに煙ったくて咳き込むと、座り込んでいる俺とは反対に壁に凭れて煙草を吸っているアーサーが上から俺に視線を向けてきた。

「それ、見るところ灰皿代わりじゃないだろ。何の雑誌だ?」

「ぶっほっ!」

一際大きく咳き込み、肺から一気に煙を吐き出す。呆れたような視線が背中に痛いほど突き刺さる。

「そんなところに座ってるからだバカ。んで、何だこれ」

あっという間もなく雑誌を手元から奪われ、月光に照らされる。無言が何より恐ろしい。

「人って……変われねぇもんだよな」

「は……」

「反抗したって結局は、血より濃いものはないんじゃねぇかって話だ」

見ろよこの面、俺に求められるのは偉そうな表情なんだよ。笑えるだろ。アーサーは乾いた笑い声をたて、俺に雑誌を返すと煙草の火を靴の裏で搔き消した。律儀に拾ってポケットに突っ込む様子を黙って見つめる。

「……俺は、アンタが羨ましい」

不意に、そんな言葉が口をついて出た。平常ならばきっと口に出したりしない、くだらない感傷だ。

「俺だってアイツと同じ血が流れてるのに、貰う愛情も、技術も、背丈でさえ抜かれてる。これで兄だ、弟よりも劣って生まれた!」

気付けば立ち上がっていて、アーサーと向き合っていた。夜風が間を通り抜ける。アーサーの表情は、驚くことに迷い子のように戸惑いを浮かべている。ふと、どこかの家からピアノの鍵盤を叩く音が耳を掠めた。二人して見上げた先には、橙色の灯りが漏れ出していた。拙いが、聞き覚えのあるクラシック。だけれど曲名が思い出せない。

「……アンタ、よく遊んでるのか」

「今は仕事の帰りだ。遊んでた時期があることは否定しないが……」

今だけ立場が逆転したような気で尋ねると、歯切れ悪くアーサーが応える。

「……その頃、とある男に言われたことがある。バレなきゃいいが、バレたら終わりだと」

「極論……」

「ハッ、その通り。……けど、見つけたら止めるのは歳上の役目なんだってよ。俺は男ほど生きるのがうまくねぇから、今日だけお前と共犯だ」

下ろした指で摘んでいた煙草を取り上げられ、アーサーはそれも同じように火を揉み消すと俺の手にまた握らせた。なるほど、この男の無邪気な笑みは悪魔じみている。

「じゃあな、ロヴィーノ」

後ろ手をひらひら振って、アーサーは夜道を歩き出す。サヨナラとだけ返事をして俺も反対方向に踵を返した。さっきから聴こえてくるピアノは、何度も同じ所で躓きながらそれでもはっきりと鳴り響いていた。やさしく、強く、懸命に。

 

 

「おかえり、兄ちゃん」

「……おー」

まだ起きているフェリシアーノに短い返事をして自室に戻ると、このタイミングで普段滅多に鳴らない携帯が震えた。知らない番号に首を傾げつつひとまず通話ボタンを押す。

「……誰だ?」

「おお、繋がった! 俺や俺!」

「詐欺なら切るぞ」

「ちゃうねん、ロヴィーノ! 親分や!」

「……アントン?」

電話越しに目を見張る。連絡の理由を聞く前にアントーニョの方から話し出した。

「手紙、届いとるんやろ。そこに書いた友人が携帯貸してくれたんよ。ロヴィ、何か言ってみぃ」

「……何かって何だよこのやろー」

すっかり喜色満面なアントーニョの顔が目に浮かんで呆れ声を出す。電話越しで緩む頬は残念ながら抑えきれなかったが、相手には見えていないのだからいいのだ。

「あのな、ほんまに日本行けることになってな。ギル……あ、その友人がどうしても事務所立ち上げるって盛り上がっとってなぁ。ほんでロヴィ、フェリちゃんも一緒におるんやろ? モデルやらへん?」

「お前はまた、突拍子もねぇことを」

モデル、と聞いて机に置いた雑誌に視線をやった。澄ましているようで、何かを諦めようとして諦めきれない、よく見知った顔。

「でも、いいかもな。丁度負かしたいヤツが出来たんだ」

同じ夜空の下にいながら、お互いに違う方角を想った俺とアーサー。生きる世界も取り巻く環境も違うのに、あの時だけはやけに近くに感じた。ひとまずはあの人を目標にしよう。変わろうとする心は何も悪くないのだと証明してやりたかった。

 

 

「兄ちゃんと料理するの、久しぶりだねぇ」

パスタを茹でながらフェリシアーノはいつも以上のアホ面で笑う。それでついトマトに包丁を差し込む手が止まり、何事もなかったかのように動きを再開する。昨夜、電話を終えた俺はフェリシアーノに放課後開けておくように命令した。呆気に取られて頷いた弟を、その次の日の放課後スーパーへ引きずったのがさっきで、パスタを茹でるように命じたのが数分前だ。

ヴェ、ヴェ、ヴェ、と謎の言葉と一緒に鍋を見つめてフェリシアーノがゆらゆら揺れる。それに包丁がトントンとまな板を叩く音が加わり、気付けば鼻歌を口ずさんでいた。

「あれ、兄ちゃん、その曲……」

「あ? 知ってるのか」

「うん、ショパンのノクターンだよ。兄ちゃんがクラシックって珍しいなぁ」

えへへ、とフェリシアーノは前の家でも思い出しているのか懐かしむようにはにかんだ。そうか、だから。

「夜を想う曲、か。あれ、その通りなんだな」

フェリシアーノが笑う俺を不思議そうに窺う。理由は知らないだろうにフェリシアーノはまた朗らかな笑みを浮かべてそうだねと相槌を打った。

美味しい予感を含んだ湯気がふうわりと辺りに漂う。キッチンはこうでなくては。

「フェリシアーノ、出前選ぶならもっと美味そうなピッツァ探せよ」

「ヴェェ……じゃあ兄ちゃんも探してよ」

「ケッ、一人じゃ何も出来ねぇやつだな」

「でも、兄ちゃんがいるよ」

言われて、息が詰まった。ここでは誰にも必要とされていない、居場所なんかないと決めつけていたのは、誰だろう。

 

今でも思い出すものがある。祖父の逞しい背中、その腕の中で擽ったそうに笑う弟と、それを遠くから睨みつけている幼い自分自身の姿だ。

 

けれど、そんな時にいつも、自分に気付いて名前を呼んでくれたのは。

 

「ロヴィーノ兄ちゃん? ……泣いてるの?」

「トマトが目に染みるんだよ、ちくしょーが!」

「えぇ、トマトって染みるの!?」

隣に並ぶフェリシアーノの脚を軽く蹴る。全く、甘えてばかりの、どうしようもない愚弟だ。

……しょうがないから、ちょっとくらいは面倒をみてやってもいいと、そう思った。

 

終.

NANGOKUSHIKI

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