冬来りなば
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※多国籍の学校ではありますが国ではなく人に改変しています。
疲弊しきった身体を無理矢理に動かし、依然と生徒会室にて作業をする者がひとり。
言わずと知れたアーサー・カークランド会長その人である。
いつものように威厳たっぷりに座ってはいるが、時々手元の動きが止まってはカクカクと頭を揺らしている。そしてまたハッとなって、誰もいない生徒会室を挙動不審に見回してはため息を吐いていた。良く手伝いに現れる後輩の少女はここ数ヶ月母国に戻っていて姿が無く、副会長であるフランシスはと言うとストライキだ何だと言ってことあるごとに逃げ出すため捕まえられない。加えて、アーサーと二人きりになる空気が耐えられないのか、居るには居る生徒会の面々も顔を出さないのだ。
よって、多国籍の生徒が集まるこの何かと面倒事が勃発する学園の問題の処理を一人で行う羽目になり、アーサーは毎日地獄のような日々を過ごしていた。それでも目を逸らすことなく仕事に向き合うのは国の誇りに掛けてなのか、それとも本人の性質故か。実のところ両方であり、だからこそアーサーには逃げ道が存在しない。
頭を痛める要因は生徒会に留まらず家庭にもあって、実兄達の策略の所為で現在アーサーは義兄弟であるアルフレッドと二人暮らしをしていた。
思春期が過ぎた義理弟は生意気になりはしたがアーサーにとって可愛い弟分に変わりない。だから、それ自体が嫌なわけではなく、むしろ実兄達と離れられたことは喜ばしいことだった。
しかし、それでは何が頭痛の原因かというと、二人には圧倒的に生活力が欠けているのだ。掃除洗濯はまだアーサーが何とか出来たが、問題は食事だ。ここ最近炭もどきしか作れていない有様で、アーサーは胃さえも痛めている。アルフレッドの夜遊びがその影響もあってか増えていて、叱っては煩がられあまつさえ食事に対して不平不満を言われた。
最早、アーサーの頭痛や胃痛は常備している痛み止めが効かないところにまできている。
……考え事をしていた所為か、注意散漫になっていたアーサーは傍に置いてあった書類を地面へバサバサと落とした。慌ててしゃがみこんで、その合間にピキリと腹部に痛みが疾る。
「ッ……痛ぇ……」
ぽそり、と掠れた悲痛な声が漏れた。そのアーサーの数少ない救難信号も、虚しく壁の中へ吸い込まれていった。
○
「髭野郎、生徒会に顔出せって何度言えば分かるんだ!」
「アル、昨日も家に帰って来なかっただろう。全く……!」
「あっちで揉め事? 収拾のつかないケンカはするなとあれほど叱ってるのにか!」
今日も今日とて走り回る生徒会長のオーラがいつにもまして不機嫌で、自然に生徒達は避けて通る。叱責の声が何度も飛んでいて、気の毒そうに振り返りはしても誰も接触しようとしない。触らぬ神に祟りなしとばかりに人波が割れ、その中をふらふらとした足取りでアーサーが駆けていく。
「チャオ、菊〜。それにしてもアーサー、いつにも増してピリピリしてるねぇ」
朝、登校してきた菊に挨拶をしながら、目敏いフェリシアーノが騒がしい正門の様子に小首を傾げた。ここ付近が忙しないことは……いや、学園全体がひしめき合っているのは毎日のことなのだが、あんなにもピリピリと神経を張っているアーサーが気になったらしい。菊も律儀に「おはようございます」と挨拶を返しながら、アーサーの様子のおかしさは彼も気掛かりなのか眉を困ったように下げた。
「ええ、そうみたいですね。後で声を掛けてみます」
「ヴェ〜!菊、積極的にいくなんて珍しいね。怖くないの」
そんなに奥手に映っているのだろうか、と菊は自分でも軽く衝撃を受けつつも苦笑する。それにアーサーに対して怖いという感覚はあまりなく、首を横に振った。
「いいえ。アーサーさんは決して怖い人ではありませんので、そんなことはないですよ」
「そっかぁ。じゃあ、菊とアーサーは友達なんだね。前からよく話してたし。菊の友達なら俺も話せるようになるかなぁ」
フェリシアーノの柔らかい発言に菊はそっと微笑み、それからまたアーサーの方を心配そうに窺った。
○
昼休みは……いや、昼休みこそ喧騒の絶えない学園を顳顬を押さえながらに生徒会室へと向かう。誰もいない渡り廊下で壁に手を着いて、アーサーは重苦しい息を吐き出した。思えば、身体がいつも以上に怠い。ポケットを探って常備薬を取り出しはしたけれど、力の入りにくい手元からぽろりと薬のシートが落ちた。またか、としゃがもうとした所で誰かの腕にそれを止められ、驚いて前を振り仰ぐ。
しまった、何で前からの人間に気付かなかったんだと動揺を滲ませ、その視線の先が見馴れた顔だと分かるとほっと胸を撫で下ろした。
「私が代わりに取りますので……ちょっと、失礼します」
姿勢の良い身体が折り曲げられ、シートを拾い上げる。丁寧に手渡されアーサーはひとつ断るとその場で薬を飲み込んだ。
「ありがとな、助かった」
空咳をしながら弱々しく口元だけ笑みを貼り付けるアーサーに、菊が気遣うように「いえ」、とだけ返事をした。
「最近、ちょっと調子が悪くてな」
ちょっとでは済まないほどやつれていることを自覚していないのか、アーサーはそう言うとまた歩き出そうとする。あ、と菊が一音発したと同時にその身体がぐらりと揺れた。慌てて支えるも驚くほどにぐったりとしている。
「アーサーさん……!」
「だい、じょうぶだ、き、く……」
菊の切迫した声とは反対にアーサーはどこか浮わついた声音で返す。菊の手のひらが額に触れた瞬間、アーサーの意識はプツンと途絶えた。
「う……う、ん……っ?」
何度か瞬きをして、アーサーは白い天井を見つめた。何処だ、ここ……と微睡み、保健室だと分かると反射的に起き上がる。
「……ッ!」
「あぁ、ダメですよアーサーさん。貴方、高熱を出して倒れたんです。恐らくオーバーワークの所為だと先生が仰っていましたが……その、休んでなかったんですか」
菊の聴き心地の良い低音が耳朶に沁みる。アーサーは朧げな視界の中微かに頷いてみせて、だけど、と口にした。
「やること……溜まってるんだ。……ッ、後で困る、休んでなんか」
「いけませんよ。そも学生の本分は勉強なんですから、学園の仕事をそこまでアーサーさんが請け負うこともないと思います。その、微力ながら私もお手伝いしますから……アーサーさん?」
爺くさいと一刀両断されがちな説教を菊が説いていると、いつの間にやらアーサーが涙を溢していた。熱の所為だろうかと慌てて手拭いを取り出す。
「て、手伝うって……言ってくれたのか」
「は……はい」
「ほんと、か……?」
菊のひんやりとした手首を熱い手が柔く掴み、助けを呼ぶことを知らない迷い子のような瞳でアーサーがひたと菊を見つめた。心臓がどきりとして、慌てて口を開く。
「もちろんです、アーサーさん。お困りの時は呼んでくださいね。きっと駆けつけますから」
うん、と満足気にアーサーが頷く。周りに甘える術を知らない異国の友人に菊は心を痛めた。同時に愛おしく感じられるのは、普段の彼とのギャップのせいだろうか。
「ありがと……な、菊」
熱に浮かされながら朦朧と自分を呼ぶ声や、紅くなっている頬に妙な錯覚を覚えそうで咄嗟に視線を横に逸らす。落ち着け本田菊、平常心、平常心だと心の中で唱えた。
ただでさえ神経質な彼が友人としてくれているのだ、この友情を一時の気の迷いで無碍にはできまい。
……と、菊が本能に抗っているところで保健室のドアが荒々しく開かれた。
「アーサー!」
振り返るまでもなくあの弾むような声や親し気な呼び方は学園でも有名なアーサーの義弟、アルフレッドだ。
「保健室ではお静かに」
「あっ! ごめんっ」
口元に人差し指を立てて制すると、アルフレッドが息を整えながら謝った。義兄弟とはいえ家族の登場に菊が席を立つと、その腕を掴んだままのアーサーの指先がぴくりと反応した。
「い、行くのか」
「え? えぇ、お仕事、私の出来る範囲でになりますが代わりに片付けておきますね」
「……ん」
名残惜しそうにしているアーサーの様子に菊はつい微笑みを返した。家族の前で惜しまれるとは思ってもいなかったからだ。
「では……放課後、お見舞いに伺います」
「そ、そうか。ありがとな」
分かりやすくアーサーの顔が輝き、菊もまた心がほんのり温かくなる。
「ほら、アーサー。帰ろう」
アルフレッドがアーサーを起き上がらせる気配を背に感じながら、菊はその場を後にした。
○
「あ」
「お」
放課後、生徒会室へと足を運ぶと、そこには珍しい人物が居座っていた。名目上は副会長のフランシスだ。
「いや……その、なぁ。お兄さんもちょぉっとアイツに押し付けすぎたかなって思ってね」
フランシスが、頭を掻きながら視線を斜め上に向ける。奔放な彼でも反省はするらしく、今回の事態には少々引き目を感じているようだった。
「そうですね……この量を一人に押し付けるのは、賢い判断ではないと思います」
「ぐぅっ」
「アーサーさんのためにも、二人で片付けましょうか」
菊は素直になれないフランシスを取りなすように微苦笑を浮かべた。
何故あんなにも酷い状態になったのか、菊は心の底から納得した。
アーサーの家に訪問したところ洗濯物は干されたままになっていて、そこら中に物が散乱している。ほとんどアルフレッドの私物だろうと適当に机にあげて足場を作りながら歩く。台所の様子には、思わず口の端が引きつった。
「まずは掃除……それから洗濯物を畳んで、栄養価の高い食事を……」
ぶつぶつと今後の予定を立て、菊は今日一番の気合いの入った表情を見せた。
瞬く間に掃除を済ませ、洗濯物を畳み、訪ねる前に買ってきていた食材で調理を始める。
アーサーの部屋で付きっ切りで看病をしていたアルフレッドが片付いたリビングの様子に驚きの声をあげた。
「ジャパニーズニンジャ!」
「人違いかと……」
はしゃぐアルフレッドにすげなく返し、日本ならではの雑炊の仕上げに入る。果たして口に合うだろうかと悩んだ菊がアルフレッドに味見をさせたところ、この家で美味しいご飯を食べたのは初めてだと喜ばれた。
……菊は、更にアーサーが心配になった。
その後のことだが、雑炊を食べたアーサーは泣いて嬉しがったという。
○
「髭野郎、お前どういう計算したんだ、表記が間違ってる」
「アル、風紀委員に見つかる前にシャツ入れとけよ」
「なんだ、今日はやけに静かだな。……ん、俺の体調? 平気だから心配するな」
学校に復帰してからもアーサーはキビキビと働いていて、前よりもスッキリとした顔立ちでいた。久しぶりのアーサーの登場を生徒たちは心のどこかで嬉しく思いながら校舎へと入っていく。……それもそのはず、この学園はまとめる者がいないと立ち行かないことを強く理解しているからである。普段は暴れている連中もここ数日は反省し大人しくしていて、様々な言語の挨拶が行き交いながらもケンカはごく小さなものだけしか起こっていない。それすらもこの学園では珍しい光景だった。
「チャオ、菊〜。あれ、何か良いことでもあったの」
「おはようございます、フェリシアーノ君。いえ……アーサーさんが戻ってきてくれて良かったなと」
「そうだねぇ、なんだかアーサーがいないと物足りない気がするもん」
好々爺のような気分の菊の隣で、うんうん良かった、とフェリシアーノが頷く。その矢先、突如後ろから地獄から響いてくるような声が轟いた。
「フェリシアーノ……! お前分の記事がまだ上がっていないぞ、どういうことだ!」
「ヴェ、ルート! ごめんなさぁい、すっかり忘れてた」
「忘れてたで済まされるか、今日という今日は許さんからな!」
独特な鳴き声をあげるフェリシアーノの首根っこを掴み、菊に挨拶だけするとルートヴィッヒはそのまま部室の方へフェリシアーノを引きずりつつ怒りながら消えていった。菊が呑気に手を振るフェリシアーノに苦笑しながら手を振り返していると、次は後ろから肩を控えめに叩かれた。
「き、菊」
「アーサーさん。おはようございます」
アーサーは少々恥ずかしそうに挨拶を返し、かと思えば背筋を正して菊を見据えた。
「連々日……その、世話になったからな。何か礼をと思ってるんだが」
「いえ、そんなお礼をされるほど大層なことはしていませんよ。お気になさらなくて、も」
菊がそう断ると、アーサーの顔が明らかに沈んだ。菊は思わず言葉を詰まらせ、あ、いえ、としどろもどろに手を振った。
「では……また、お家を訪ねてもよろしいでしょうか。私は一人暮らしなので誰かと食べるのが新鮮でして。出来ればお夕飯をご一緒に出来ると嬉しいです」
「そんなことでいいのか? それだったら俺だけが得をするみたいだ」
ぱちぱちと瞬くアーサーに、ええ、と菊は頷く。存外友人と過ごせるだけで楽しいものだ。
「じゃあ、また……改まると何だか照れるな」
柔らかい表情でアーサーが笑う。整った顔立ちが明るく崩れ、菊はアーサーの顔面を反射的に覆いたくなった。
「菊?」
反応のない菊の名をアーサーが呼ぶ。菊は首を緩く振り、煩悩を振り払った。
「いえ、あまりに眩しかったもので」
「確かに今日は陽射しが強いが……?」
彼らの桃色をした春が、三年目にしてようやく訪れたようで。並んで石畳を歩き始めた音が、まるでドアをノックしているかのように二人の耳に届く。
「冬来りなば、春遠からじ」
「ん、それは何て意味なんだ」
「辛い時期を耐え抜けば幸せが訪れることを指すことわざです」
解説をする菊に、それなら聞いたことがある、と思い至ったアーサーが微笑んだ。
「確か、元はイギリスの詩人の言葉だろう。原文は……」
ざあっ、と樹々がざわめいて、ささめき合う二人の間の小道に心地よい木漏れ日が射した。
終.