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1.

 

バタン、と、音を立ててタクシーのドアが閉まる。程なくして車は動き出し、元来た道を走り去って行く。それを見送ってから、アーサーはようやく歩き出した。隣を見れば、直ぐそこに海が広がっている。吹いてくる風は潮のにおいを含み、そして冷たかった。コートの襟を立て、首を竦めて足早に歩みを進める。見慣れているはずの街並みは何故だか少し他人事のようにアーサーの目に映った。空には灰色の雲がはびこり、天気は芳しくない。

「……よし」

実家の玄関で挙動不審に腕を彷徨わせ、ようやくインターホンを鳴らしてみても誰からの反応も返ってこない。アーサーはひとまずそのことに安堵し、鍵を開けて室内へと身を滑らせた。

照明が落とされ、薄暗い中を馴れた動きで二階へと上がる。自室はアーサーが独立したことで物置き部屋に変わっていて、行き場のない荷物たちがひしめき合っていた。アーサーが使っていたデスクも隅に置かれたままで、その上にも荷物が積まれている。用があるのは引き出しの方で、アーサーは財布に忍び込ませていた小さな鍵を手に取ると、引き出しに取り付けられている鍵穴に差し込んだ。それによって施錠は簡単に解かれ、アーサーはゆっくりと引き出しを開いた。思わず目を背けたくなるほど十代の断片がそこには詰まっていて、知らずと動作が緩慢になるのだ。

「……あっ、た」

アーサーの微かな呟きが、閉ざされた室内にぽつんと響く。綴じ込められた思い出に目眩を覚えるが、深呼吸をしてポストカードを引き抜く。

……古いものはみんな、もっと不器用なんだから。

アルフレッドの言葉が脳裏を過ぎる。ここには、肖像画以上の情報が沁みていた。兄から差し出されたこの一枚を何気なく受け取るために、どれだけ気を遣ったことだろう。肖像をなぞる指先に、どれだけ心を込めただろう。どれだけ、どれだけ。

淡い輪郭をかつてのように辿る。微細に描き込まれているわけでもない、単純な線で描かれた自画像。……なんて、真っ直ぐなんだろう。あの頃も、アーサーはそう思った。複雑でなくてもいい、不必要に飾る必要もない。そこにあるのは美だ。技巧に依るものでもない。自分の主張すべき点を、この絵の作者は良く理解していた。自分自身を誰よりも愛し、肯定していた。

フランシス。美しい肖像の正体は、少年期とちぐはぐに混ざりあった男へと成長を遂げていた。フランシスとの昨晩の行為が甦り、脳の回路がじわじわと熱くなる。あの晩、アーサーが同性と関係を持つことが初めてだったこともあって、そう長い間抱き合っていた訳ではないが、それでも肌の温もりを共有するのには充分だった。あったかくて、無性に泣きたくて、妙な安心感に包まれていて。

「……」

ふっ、と短く息を吐き、ポストカードを財布に収めると部屋を出た。帰ってきた痕跡が残らないように細心の注意を払い、素早く鍵を閉めてから海岸へ向かう。

 

 

靴を履いたまま砂浜に降り、感触を楽しむでもなくただ歩く。アーサーの当初の目的はフランシスの描いた自画像を取りに行くことにあり、それを達成した今ここでするべきことがなくなってしまった。平日の午前中だ、人を訪ねるにも何処も不在だろう。だからこうして、砂浜を歩いている。直ぐに帰るには、目まぐるしい変化にまだ気持ちの整理がついていなかった。

「アート」

不意に件の男に呼ばれた気がして振り向くと、砂浜へ続く石階段にフランシスが立っていた。アーサーはギョッとして、近付いてくる足音が本物であることを悟り、あろうことか逃げ出した。

「は!? ちょっ、何で逃げるの!」

当然フランシスは追いかけるが、砂に足を取られてうまく走れない。クソ、と悪態を吐きながらどんどん離れていく背中を見てつい本気になりスピードを上げる。大人ふたり、側からみたら不毛な追いかけっこを朝から繰り広げる。

「なんで来たんだよ!」

「お前が呼んだんだろ!」

フランシスがそう言うのにも訳がある。アーサーを探して洗面所を除いた際、鏡にルージュで殴り書きされている住所を見つけたのだ。アーサーはわなわなと震える唇を噛み、くぐもった声で吐き捨てた。

「……ここまでするとは思わなかったんだよ……!」

アーサーには、フランシスを試すなどといった考えは備わっていない。ここまで対話を重ねてもまだ疑い深い面倒な男を受け入れたのだから、居場所さえ記しておけば呆れながらも待ってくれるはず……と、そういう信用は抱いていた。しかし、追いかけてくるとは毛ほども予想していなかったのだ。

「……アーサー!」

アーサーをあれやこれやと好き勝手な言い回しで呼び止めようとしていたフランシスは、息を吸い込むと大声でアーサーの名前を口にした。アーサーが動揺し、振り返った隙にフランシスは大きく地を蹴るとアーサー目掛けて飛び込んだ。しかしその衝撃で二人して砂浜に転倒する。

「ひっ、卑怯だ……っ」

「言いたいことは山ほどあるんだけど……アーサー、迎えに来たよ」

フランシスが視界に被さっているだけで恥ずかしいのか、アーサーの顔は耳まで真っ赤だ。それからフランシスは立ち上がり、コートを汚した砂を払いながらアーサーへ手を差し伸べた。渋々その手を取ってアーサーも立ち上がる。フランシスは呆れ声を上げて砂まみれになったアーサーの頬を拭い、服に付いた汚れも払った。その間為すがままのアーサーの身体は明らかに硬直しており、フランシスは安心させるように微笑む。

「あのさ、アーサー」

「なっ、なんだよ」

「エッロいオーラダダ漏れで出歩くの、俺どうかと思うよ」

瞬間、片脚に鈍い痛みが奔り、フランシスはその場でしゃがみ込んだ。

「……痛い!」

「テメェが意味不明なこと口走るからだ!」

更にアーサーが拳を振り下ろそうとするのを間一髪で制す。こんな時に暴力で訴えるのはやめてほしい。それに、さすがにこちらも我慢の限界なのだ。

「俺の気持ちも考えてみろ! 昨晩愛し合ったはずの相手が隣にいなくて、手掛かりは鏡の落書きだけ! 元から危険なヤツだとは思ってたけど、いっちばん危うい雰囲気の時に一人歩きしてると思ったらゾッとするって!」

饒舌に語ることはあってもここまで感情を露わにさせたフランシスを目にしてこなかったアーサーは、勢いに圧倒されてぱしぱしと瞬きをする。

「……危ういってお前、本気で言ってるのか? 俺はケンカは強い方で……」

「初日に襲われかけたのに?」

「な……っ」

初めて対面した時、フランシスからキスされかけたことを思い出す。その時確かフランシスは言葉を濁らせ、話を流したはずだ。それにキス未遂には遭ったが、それだけで果たして「襲われた」と言えるのだろうか。

「あーあー、これだから坊ちゃんは! そろそろ地に足着けないと、どうしようもないところに飛ばされるよ」

歳上風を吹かせたくなったのか、腰に手を当ててフランシスはアーサーを叱った。それから何も言えなくなるアーサーの手をため息を吐いた後に握ると、階段の方へ歩き出した。アーサーは小さい子どもに戻ったような気恥ずかしさに俯くも、フランシスの手を振り払うことはしなかった。

 

 

「……?」

微かな違和感に眉を顰める。てっきり駅に向かうと思っていたのに、フランシスの立ち止まった場所はアーサーが小さい頃から存在する喫茶店の入り口だった。

「おい、どうしてここに」

応えるより先にフランシスは扉を開き、手を引かれたままのアーサーもその後に続く。もう一度聞き出そうと顔を上げたアーサーは、フランシスが違う誰かを見つけたのに気付くとそこへ視線をやった。

「……っ!」

「逃げるな」

条件反射的に顔を背け、踵を返そうとしたアーサーの手をフランシスが強く握りこんだ。抗議するようにフランシスを睨め付けるアーサーの瞳には、怒りよりも怖れや戸惑いが顕著に現れている。

「押し付けがましいと思うか? いや、事実そうだろうな。けど俺は、これからも後ろめたさを抱えていくお前より、これからは憂いなく笑えるお前がいい」

店内ではジャズが流れている。音楽に紛れたフランシスの囁きは歌になってアーサーの耳に届いた。フランシスは俯くアーサーの手を引き、スーツを着た赤髪の青年の前まで移動するとその対面に腰掛けた。

「久しぶり、元気にしてた?」

まずは当たり障りのない挨拶。フランシスの声掛けに青年は黙って脚を組み直し、じっとアーサーに視線を寄越した。それで益々顔を上げられなくなる。

「そういえば、今もあそこで働いてるんだっけ……」

フランシスの世間話が続く。青年は……アーサーの兄であるその人は、それには人当たりよく返した。兄弟の中で一番社交性があり、人脈もある長兄はとにかく話し上手なのだ。

「……じゃ、早速本題に入るよ。仕事抜けてきたんだろ」

フランシスの手がアーサーの背後に伸び、促すように背中に触れる。アーサーはハッとなって、ちらと目線を上げた。それからのろのろと縮こまっていた背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を見る。

「俺、アーサーと恋人になりたいんだ」

「おま……ッッ」

気を持ち直そうとしたところで、あまりにも単刀直入なフランシスの切り出し方にサッと顔が青褪める。もっと慎重な男だと思っていたのに、と唇が震えた。反射的に胸倉に手が伸びかけて止める。逃げるな、とフランシスはアーサーに告げた。そのフランシスは今、兄の方を見て微動だにしない。

「……ぁ」

店内は空調が効いているはずなのに、首筋にも手のひらにも厭な汗が浮かんでくる。鼓動も速い。テーブル越しの兄が恐ろしく遠く感じた。きっとそこには、偏見と無関心が混在していて。

「アート」

不意に、膝の上で握られていた右手に自分のものではない熱が再び加わる。フランシスに手を握られたのだと気付くのに、少しだけ時間を要した。

「お前の敵は、誰だ?」

敵。敵? 違う。家族を敵だと思ったことは、一度としてなかったはずだ。言うなれば彼らなりの常識を学ぶ宿。言葉とは、食事とは、身嗜みとは……性とは。

しかし、常識もまたアーサーの敵ではない。それは盾だ。しかし、盾を振りかざした腕には未だ痺れが残っている。常識で堅めた盾は壁になり、その壁に縋りながらも外側の喧騒は止まない。反響音が耳鳴りになる。雨は止まない。この壁の中に敵が潜んでいるのなら、それは内側も内側、アーサーの身の内にある偏見だ。「社会が自分の存在を認める筈がない」という強迫観念。だからこそ、認められたいと言い換えてきた。

「俺、は」

正直になれば、終わるのだろうか。壁を叩く喧騒とは無関係とばかりに舞い降りた薔薇の花びらを受け止めたら、一体何になれるのだろう。

「俺は……」

フランシスを見つめる。何故だか今まで強気だったはずのその男は驚いた顔をして瞬きをし、間の抜けた表情をしていた。

「俺は、フランシスが好きです」

兄に宣言したつもりだった。しかしアーサーの視線は依然フランシスに向けられていて、その熱っぽさに余裕を保っていたフランシスの顔が瞬時に真っ赤に染まった。

「バッッ……カじゃねえの……」

「は?」

正直になってみれば暴言を吐かれ、太い眉を顰めるアーサーの顔を片腕で押し退けフランシスは自身の顔面も空いた腕で覆った。

いやだって、答えになってないし。俺の話聞いてた? 好きですって、何だお前。告白か。あ? 告白だ。

「……呆れた」

長兄の口から吐き出されたその言葉に、混乱しているフランシスはともかく正直に打ち明けたばかりのアーサーはびくりと身構えた。

「何かと思えば再婚の話とは。呼び立てるなら休日で良かっただろ」

「い、いや、結婚とか、そういう話では」

「尚更だ! お前はいつまでガキのつもりでいる? 事後報告で充分じゃないのか」

次はアーサーがぽかんとする番だった。古臭い教えで育ったのはアーサーだけでなく、兄達だって同様だ。幼少期に良いようにこき使われていた理由だって、自分が『おかしい』からいじめられているのだとアーサーは今の今まで思い込んでいたのだ。

「反対しないんですか……?」

「世間の風当たりを気にしているのか? いつの時代の話だ」

いいか、と前置きをして長兄はアーサーの瞳を覗き込んだ。翡翠と翡翠がかち合い、互いが互いを映す。

「俺が海外を飛び回っていたのにもそれ相応な訳がある。それを見てきてお前を弾劾するほど、俺は能無しじゃないね」

唖然とするアーサーに代わり、ひとまず衝撃から立ち直ったフランシスは微笑みを浮かべると口を開いた。

「だったら、君はもう少し早くコイツの誤解を解いてあげられたんじゃないか」

口調こそ穏やかだが、そこから紡ぎ出されたのは意外にもアーサーの兄を責める言葉だった。言われて長男はバツが悪そうに目を細める。

「俺は自力で気付いた」

「だからアーサーも分かるはずだって? 兄弟だから、言葉にしないでも心が伝わると?」

「待て、なんで俺が叱られているんだ」

身を乗り出した兄の手前で、すっかり冷めた紅茶が波を立てる。フランシスは未だ口元に微笑を湛えていた。それがフランシスなりの防御策であることをアーサーは知っている。

「他人に優しく出来て、家族に出来ないってのはある意味で不器用だよ。ここで解決するどころか、ようやく齟齬に気付けたってことは始まってすらいなかったってことだぜ」

フランシスは若干緊張気味にアーサーの肩へ手を回し、先ほどのように促す。迷った後にアーサーは真摯に頭を下げた。

「俺たちには、話し合いが足りなかったんだ。……今度、貴方の話を訊かせてほしい」

「……あぁ」

兄は僅かに頷き、紅茶を飲み干すと懐から素早く財布を取り出した。そこから何枚かお札を引っ張り出すと、テーブルに置いて立ち上がる。

「時間だ。この金は好きに使え」

外向けの顔も作る気も起きないのかぶっきらぼうに告げ、扉に掛かったベルの音を最後にその場から兄が姿を消す。アーサーの兄は乱暴で、そして友好的な人間だ。決して裏表が激しいわけではないのだが、素に近付けば近付くほどアーサーに似ているなとフランシスは感じた。

「……折角だし、何か飲んで帰ろうか。俺はカフェオレ」

「……アッサムティー」

 

 

会計を済ませて店を後にしたはいいものの、外は生憎の雨模様だった。直に本降りになるだろう曇り空を見上げ、それでも再び店内に戻る気は到底起きない。すると、アーサーの隣で同じように空を見上げていたフランシスが突然アーサーの手を握った。ウワッと声を上げ、逃れようとするアーサーの手をがっちり掴む。

「駅まで走るぞ」

「バカがっ、これから大雨になる!」

「気にするなよ、英国紳士」

せーのっ、と掛け声を上げたかと思えば、次の瞬間アーサーは走るフランシスに引っ張られていた。普段家に篭っている男とは思えないないほど足が速くて目が回る。やがて曇天から雨が降り出した。どんどん強くなる雨脚と、離れていかないフランシスの温度。雨が降っている。それなのに、ちっとも孤独を感じない。フランシスが笑っている。ああ、そうか。急にストンと、アーサーは解答を得た。雨は、止まないでもいいのだ。

「……側から見たら狂人だな」

「恋してるからさ!」

飛び切り幸福そうにフランシスが節をつけて歌った。髪に、顔に、首に、腕に。全身に雨が当たる。そうだ、恋をしているのだ。それも、薔薇色の!

 

電車に乗り込む頃には、びしょ濡れの二人を気の毒がるような視線が刺さる。悪さが見つかった時の心境になってアーサーは一瞬怯むが、隣でけろりとした顔のフランシスを見れば自然体になれた。車窓から見える景色は鮮やかなまま後方に下がっていく。規則的に揺れる電車の音に段々と意識が薄くなり、とうとうアーサーはカクリと落ちた。フランシスはその様子を苦笑して見守っていたかと思えば、アーサーの腕を引っ張り自身の肩に凭れさせた。

「もう目と鼻の先に家があるよ」

寝入っているアーサーの耳元で、フランシスが心地よい低音でそう囁く。フランシスの口元は、無意識にも綻んでいた。

「おかえり、俺のアート」

 

 

ヌードモデルは続けてもらう、と帰宅後フランシスはいの一番に告げた。完成まで付き合うと言った手前異論はないアーサーは頷き、電車で寝たおかげかいくらかすっきりした頭でシャツに手を掛けた。しかし、キッチンに入っていったフランシスはリビングに戻ってきた途端にあろうことかマグカップを片方、床に落とした。ガチャン、と盛大に陶器が割れる音がして、アーサーが目を丸くする。

「何してんだ」

「お前はどこで脱いでんの!?」

「あ? テメェが描くって言ったんだろ」

今更ウブな反応を見せるフランシスにアーサーの方が驚く。それに、床に散らばっているのはフランシス愛用のマグだ。

「とりあえず、床片付けろよ。本田に迷惑だろ」

「なんで今、菊?」

「大家だからだよ」

フランシスの度重なる奇異な言動に呆れ、アーサーは使い物にならないと判断すると手頃な布か袋を探した。漁っていた棚から、不意にスケッチブックが開いた状態で逆さまに落ちた。それを拾い上げ、棚に仕舞おうとしたアーサーはそこに描かれたものを見て息を止めた。

「待っ……!」

声を上げた時にはもう遅く、天を仰いだフランシスは次の瞬間吹っ切れたようにアーサーの方へ大股で歩み寄る。それとは反対に、アーサーはスケッチブックを抱えたまま後退った。その顔は耳まで真っ赤だ。

「こんなの、いつ」

「お前がいない時に決まってるだろ」

「な、なんで隠すんだ」

「だって」

それを見られたら、一発で想いに気付かれてしまう。……フランシスがぼやく通り、そのページは、ほぼアーサーのスケッチで埋まっていた。ぼさぼさの髪の毛、そっぽを向く横顔、首筋、手、腰に至るまで思い思いに描き貯められているそれらにアーサーは狼狽える。

「……お前、俺のこと、好きなのか……」

目を見開き、噛み締めるように確認する。お喋りな唇を恋の苦しみで縫い付けられたフランシスは、言葉を返すより先にアーサーを抱き締めて熱い唇へキスをした。

「……ッ! このバカッ、仕事はどうしたんだよ!」

しかし簡単に押し流されることもなく、さっきから様子が変なフランシスの胸板を押し退けてアーサーが抗議する。中断されたフランシスは名残惜しそうに身を離し、ついでにスケッチブックを受け取った。

「恋って、嵐のようなものなんだな。お前のやる事なす事に頭が熱くなるんだ」

「病気じゃねえか」

アーサーに対してロマンが足りないとばかりに嘆き、中途半端にボタンが外されたシャツをフランシスが脱がしにかかる。首筋に伝う汗を指で拭われ、びくりと肩を揺らす。

「……今からやるのは仕事なんだけど」

「うるせえな、お前が余計なんだよっ」

フランシスの大きく皮の厚い手から逃れ、アーサーは自分でベルトを外した。

「……それよりもお前、マグは」

「そうだ、割れちゃった。今度新しいの選んでよ」

ようやく片付ける気になったのか、フランシスはどこからか箒を持ってくると破片を隅に集めだした。今時掃除機も持ってないとはアナログな男だ。床にタオルを敷いたフランシスは、これで良しとばかりにアーサーへ振り返った。

「……お前、昨日までの恥じらいはどこに置いてきたの?」

「今更お前に隠すモンなんてねぇよ」

スラックスを脱いで胸を反らすアーサーの堂々たる姿にフランシスが素っ気なく生返事をする。その頬は赤かった。

「で、何でお前がまた照れてるんだ」

「いや、その」

嬉しくて。やけに正直なフランシスの答えに、アーサーが眉を顰めた。それからじわじわと頬が朱に染まり出し、二人して熟した林檎のような有様になる。

どんな者にも、恋というのは感情を持て余してしまう代物らしかった。

2.

 

「アーサーの薄情者!」

開け放した窓から、海に向かってエミリーが叫ぶ。テーブルの上に不規則に並べられたピザやドーナツを口いっぱい頬張り、それらを炭酸飲料で消化した後にアルフレッドは彼女へ声を掛けた。

「それ、本人に直接言ったらどうだい」

「ピーターの前で言えるわけないでしょ!」

むっと唇を尖らせるエミリーにアルフレッドは思わず関心した。親になって随分と我慢強くなったものだ。これが学生時代ならばアーサーを張り手で吹き飛ばすくらいはしていただろう。

「でも良かったじゃないか。ピーター、喜んでただろ?」

昼食も程々にアーサーの手を引いて家を飛び出していったピーターを思い出し、アルフレッドがおかしそうに笑う。まだ頬を膨らませているエミリーは、イスに座り直すとその口にドーナツを詰めた。

「それにしたって、ここに来ていたんなら連絡くらい入れるべきよ。あの人、どうしてそういうところは抜けてるのかな」

「君が仕事中だったからじゃないか」

「呼ばれたなら飛んで行ったさ! 普通、こういう時は私への挨拶の方が先じゃない?」

アーサーの相手を見極められるのは自分だと主張するエミリーの愛情の深さにアルフレッドが口笛を吹く。少しでも傷付けようものなら保護という名目で強引に奪うことだって辞さない構えだ。

「君、フランシスとアーサーが良い関係になりそうだってことは先に予測してたんだろう。それなのに確認が必要なのかい」

「違うよ、認めてあげる必要があったんだ。アーサーは恋愛に対して人目を気にするから……でも、その心配も要らなかったようだけど」

迎えに行った駅にて再会したアーサーの姿が脳裏に浮かぶ。満ち足りた顔をしていた。この先誰かに後ろ指を差されても、差し伸べられた手を拒むことはしない。幸せな恋をしている人の面持ちだった。

「正直、嫉妬したよ。私は彼にあんな顔をさせられないから」

「フランシスも同じことを言うと思うよ。親の顔をさせられるのはピーターだけだし、君を見るアーサーの瞳は誰から見ても優しく映る」

エミリーの口元が笑みの形に緩む。つまるところ、愛の形は一つじゃないという話だ。

「……そういえば、フランシスの新作、アルはもう見た?」

「マシューが教えてくれたよ。泣いて喜んで、思わずアーサーに抱き着いたところでフランシスが現れて大変だったって」

「え、なにそれ面白そう」

額を突き合わせて会話をする双子の後ろで、壁に飾られたポスターと二枚組のチケットがひらひら仲良く風で揺れた。

 

 

「うーん、上出来」

個展の準備も終盤に差し掛かり、新作の絵画が展示された部屋で休憩していたフランシスはうっとりと微笑んだ。そこに飾られているのは、アーサーをヌードモデルにした絵画……とは違う、別の一枚だった。

 

「……ひ、人を剥いておいて何だこれは!」

時間を浪費させられたことへの怒りと、衆人に己の裸体を見られることがなくなった安堵とで感情がごちゃ混ぜになっているアーサーの姿から、フランシスは回想する。

「あの絵も完成はしてるよ。ただ初めから他人に見せる気はなかったけどね」

「嵌めやがったな……!」

「そうだな、ハメたな」

アーサーの回し蹴りがフランシスのお腹に決まる。ギブギブ、と呻くフランシスを見下ろす瞳は恋人を見る種類のものではもちろんなかった。

「ごめんふざけた……って、いやいやでもさ、絵画の中心がお前ってことに代わりはないだろ。なっ?」

仕上がった絵画の中心には、キャンバスの前に立つ濡れそぼった紳士が描かれていた。そのキャンバスからは色が溢れ出していて、額縁をはみ出して壁全体に染みが広がっている。もちろん、そこに込められた想いが分からないアーサーではなかった。

「これはね、お前が広げた世界だよ。お前が薔薇色に染めて、俺が浴びた雨だ。モデルになってもらったのは、あの日の淡い輪郭をなぞって、より確かな景色にするため」

フランシスは花嫁にヴェールを被せるような恭しさで覆いを掛け直すと、隣で硬直しているアーサーを見て吹き出した。

「ぶはっ! もう真っ赤だよ? アート」

アーサーは息を詰まらせ、うるせえよ、とだけ返すとそっぽを向いた。

 

「いよいよ明日ですね」

隣から声が掛かり、ふっと顔を上げる。物思いに沈むあまり人の気配に気付けなかったらしい。丸眼鏡の奥の柔和な顔立ちと視線がかち合い、フランシスは微笑んだ。

「……マシュー。いつから隣に?」

「ついさっきですよぉ」

身動ぎしたマシューに合わせて、スーツのポケットからはみ出している白熊のストラップが揺れる。彼らしい趣味だ。

「……そうだ、フランシスさん。外でアーサーさんが待ってます。今日はもう帰って大丈夫ですよ」

「え、迎えに来てるの? 珍しい」

ありがと、とマシューへの挨拶もそこそこに、フランシスは廊下を足早に駆ける。待たせ過ぎたら碌でもない仕打ちを食らいそうだ。入り口に、照れの混じる視線でこちらを睨めつけるアーサーの姿を見つけて、予想通りの反応にフランシスはまた笑った。

 

 

画家の仕事を再始動させたフランシスのように、アーサーにも変化が訪れていた。今まで掛け持ちで続けていたバイトの数々を辞め、塾講師の仕事を春から始めるのだという。それによって借金取りの仕事も辞めることとなったが、菊は案外すんなりとそれを許した。

「退職なさっても、またいつでも遊びに来てくださいね」

それに、大阪に行く約束もまだ果たせてません。普段大した表情の変化がない菊はこの時ばかりは目元を和ませ、アーサーに微笑みかけた。そんな冗談さえ口にした菊を前に、アーサーの視界には星が瞬いていた。何故だか知らないが、星空の下、丘の上で、唯一無二の友と巡り会えたかのような感動が胸に去来したのだ。

アントーニョの方は、まるで気にした風もなく了解しただけだったが、アーサーとのコンビは痛快で、それほど悪くなかったと朗らかに言ってのけた。アントーニョに弟分がいることを知っていたアーサーは、二枚分の展示会チケットを彼に寄越した。

「お前、ええやつやったんやなぁ。せやけど、ロヴィは色々あって絵画好かないんよ」

「そんなもの、引きずってでも連れて行け。アイツの絵には、何かを変える力がある」

随分お熱やね、とからかうアントーニョを、アーサーは鼻で笑った。

 

 

「ここで待ってて」

フランシスの住むアパートに着き、階段の方へ移動しようとした腕を掴まれアーサーは道に引き戻された。鼻白むアーサーを置き去りにフランシスは軽やかに二階まで上がり、部屋の中へ消えていった。外に一人取り残され不満げに頭上を見上げたアーサーの視界が、不意に薔薇色に色づいた。

「っ……!」

声もなく見上げたそこは初めて二人が顔を合わせた窓辺で、飛来してくるのももちろん、あの時と変わらない花びらだ。違いと言えば、花びらは赤に留まらず青、黄色、桃色と紙吹雪のように雑多に混じり合っている。

「ボンジュール、ムッシュ。なかなか今日は良い天気だろう!」

木で編まれたカゴから全て溢し終えたフランシスは、いたずらに笑うと縄を窓に吊るし、次にそこへカゴを引っ掛けた。それからゆっくりアーサーの目線まで下ろしていく。

「……なんだよ」

「お前が手に持ってるワイン、ついでにお兄さんに捧げなさい」

「食のこととなるといちいち目敏いよな」

「俺は欲深い人間なので」

アーサーはため息を吐き、鞄に仕舞い込んでいたボトルを眼前のカゴに入れた。

「よぉし、収穫完了! 上がっておいでアー……ト……うわっ!?」

ボトルを床に置き、窓を再び覗き込むまでの一瞬で、アーサーの荷物が家中に投げ込まれる。間一髪で避けたフランシスの顔が面白かったのか、真下のアーサーは愉快げに声を上げて笑う。

「ちょっと坊ちゃん……」

「これで軽くなったな。おい、ちゃんと引き上げろよ髭野郎!」

「は? ……お前、まさか」

そのまさかだ、と言葉を返し、アーサーはまず一階の小窓を足場にした。そこから水道管に手を掛けるとよじ登り、勢いよく二階の窓辺へ飛び込む。

「……ッ!」

伸ばされたアーサーの腕をしっかり掴み、フランシスが引き上げる。そのまま床に縺れ合い、先に顔を上げたアーサーがはしゃいだ風にフランシスの頬を両手でそれぞれ挟んだ。ぼさぼさの金髪にまとわりついていた花びらが床にひらりひらりと舞い落ちる。

「これが俺の愛だ、フランシス!」

「……直球過ぎて参ったよ」

ここまで一直線で届けてやったぞ、とでも言わんばかりに喋る速達便は自慢げに鼻を鳴らす。フランシスは適当な相槌を打ち、片腕をアーサーの後頭部へ回した。フランシスの上に乗っかっているアーサーはそれでしゃがみ込み、唇までの距離がゼロになる。後はただただ甘く、痺れるようなキスを味わうだけ。

「……あの絵画だけどさ、アート」

「ん……っ? ……どの絵画だ」

互いの唇をそっと離し、それでも息の触れ合う距離でフランシスが囁く。フランシスの身体にぴったり嵌まっていたアーサーは上体を起こすと、まだ跨ったまま首を傾げた。

「薔薇色の絵だよ。お前が好きなやつ」

「あ、あぁ……それがどうかしたのか」

「どうっていうか……展示会が終わったら、この家に飾ろうと思って」

わざわざ事前通告をしたフランシスの意図を掴みかねて瞬くアーサーに、フランシスは言葉を続けた。

「アートに、贈ろうと思ったんだ。けどさ、あそこまで惚れ込んでくれたのに買わなかった理由がお前にあるんなら、売りに出すより俺の家に飾った方が賢明だろ」

「……俺だけ独り占めして良い絵じゃない」

「いいんだよ。恋する人に絵を贈ることができるなんて、俺からすると歓びだから。それと……」

フランシスは屈託なく笑い、身を起こすと戸惑っているアーサーの両手を自身の手のひらで包み込んだ。

「一緒に暮らそう、アート。誓わせてほしいんだ。あの嵐を越えた先、薔薇色の雨が降る満ち足りた人生を約束すると」

今、自分はどんな顔をしているのだろう。静かに告白するフランシスの伏せられた目蓋をじっと見つめ、アーサーはそんなことを思った。鼻の奥がツンとするから、泣きそうになっているのかもしれない。いつにも増して詩人なフランシスがおかしくて、笑っているのかも。

「お前、いますごくヘンテコな顔してるよ」

顔を上げたフランシスは、アーサーと目が合うなり吹き出した。アーサー相手に完璧なロマンチストでいられた試しがフランシスにはない。

「わ、笑うなバカ! 大体、ヘンテコな事を言い出したのはお前で……っ」

「それで、返事は?」

床に溢れた花びらと、それからアーサーの髪の毛に引っかかったままの花びらが、一陣の風により一斉に天井へ舞い上がる。踊るようなそれらを前に、祝福の和の中心で二人は手を繋ぎ合っている。夢のような光景だった。

「……どうしてもって、言うんなら」

次には強い力で引き寄せられ、アーサーの唇は再びフランシスの厚い唇に触れていた。耳鳴りは随分前から聞こえなくなっている。代わりにアーサーを苛むのは、早鐘のように全身へ響く鼓動だ。こんなことでは、命がいくらあっても保ちそうにない。



 



 

嵐が止み、残ったのは『終わり』ではなかった。行き場がないと諦められた景色から、まず音が聴こえた。それから頬に当たるのは恐らく雨。ポケットを探り、出てきたメモを誰かが読み上げた。ふと顔を上げる。その人は、一輪の薔薇を大事そうに握ってこちらへやってくる。先に走り出したのはフランシスだ。あの手を掴んだら、始めにダンスを踊ろう。何を歌ったら歓んでくれるだろうか。話したいことがたくさんあるんだ。ここは往来だし、もしかしたらその人は恥ずかしいとごねるかもしれない。だけど、安心してほしい。


 

本日、薔薇色の雨により。

長い長い嵐を越えて、ここでは誰もが、貴方がやって来るのを待っていたのだから!



 

end.

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