隠しごとばかり増えていく。
雨の日の夜は、頭が重いんだ。
1.
あのまま打ち明け話を促されるかと思いきや、準備があるから日を改めて来いと告げられフランシスの家を後にした。肩透かしを食らった気分で帰路を歩くアーサーは内心ほっとしていて、しかしそんな自分に呆れてもいた。他人にあそこまで堂々と要求を突きつけておきながら、尻込みしている自分がみっともなく思えたのだ。思い返せば思い返すほど、やってしまったという後悔が強くなっていく。
「自分のことって……どう話せばいいんだ」
自分語りをするにしても、人に向けて話す時には見栄を張ってしまうのがアーサーの常だ。正直になれるかが悩みの種ではあった。
それに、アーサーの周りには彼が天邪鬼な性格であることを心得ている長い付き合いの者がほとんどであったから尚更だ。
……異性を恋愛対象に見ることができないと気が付いた時は、特に酷かった。何か大きな変事……誰かに恋をしたとか、そういう気付きではなかったと思う。ほんの微かな周囲とのズレを感じ取って、無理矢理否定に走ったのがまずかった。恋人を作っては別れるを繰り返した所為で『女好き』と囁かれるようになった学生時代。結果的に保身にはなったが、ついに友達は出来なかった。脳と肉体を切り離すような行為に走っていたからか、常に喉元は酸っぱくなる始末。結果食欲も湧かず、体重も減り続ける一方でそれを見兼ねたのがジョーンズ姉弟とマシューだ。アーサーが無理をしている一点を咎め、似合わないことをするなと叱咤したのだった。
「実にばかだな君は」
自宅に着き、何故か居座っていたアルフレッドに事の経緯を掻い摘んで話すと過去アーサーの心を突き刺した言葉と一字一句違えずにアルフレッドは言い放った。アーサーは堪らずムキになって地団駄を踏んだ。
「う、うるせぇっ! 大体不法侵入しておきながら言えたセリフじゃねえだろ」
「心外なんだぞ! ちゃんと合鍵で入ったんだから正式な入室に決まってるじゃないか」
それはいつ作ったんだと問い正そうとして、脳裏に犯人が浮かび上がったのでやめた。十中八九エミリーに違いない。普段は目立つ癖に立ち回りが巧い人間というのは本当に厄介だ。
「大体、君ってば貧相なのに絵になるのかい。彼が何を考えてるか知らないけど」
悔しいことにアルフレッドの体格と比べて遥かにアーサーは劣っている。服装でどうにか取り繕ってはいるが脱いでしまえば一目瞭然だろう。フランシスの思うところは漠然と承知しているが、それまでアルフレッドに話すわけにはいかない。
「……正直に話すって、どうやるんだ」
「そう悩むことかな。案外話し始めたら止まらなくなると思うんだぞ」
ほとんど何も入っていないアーサー宅の小さな冷蔵庫を漁り、アルフレッドはエールを手に取るとアーサーの方へ投げつけた。慌てて受け取る。
「それでも呑みながら考えなよ。きっと面白いアイディアが飛び出すこと請け合いだ」
「……ばかにしてるだろお前!」
「最初からそう言ってるじゃないか」
アルフレッドは衒いなく笑い、ソファの上で身体を半分はみ出した状態で仰向けになる。眼鏡を外すとテーブルに置き、呆然とするアーサーに微睡みながら話しかける。
「じゃ、俺はもう寝るから……くれぐれも邪魔をしないでくれよ」
「お前もう帰れよ!?」
三秒経つ間にアルフレッドは本格的に寝入ってしまい、冷たい缶を手にアーサーは途方に暮れ、仕方なくプルタブに指を掛けた。眼鏡を外したアルフレッドの寝顔には昔日の名残が濃い。
「恐竜博士になる!」
ほんの小さな頃から、周囲に笑われようとアルフレッドは夢を諦めなかった。アーサーだって突拍子もない願望だと思っていたし、直ぐに違うことを言い出すだろうと本気にしていなかった。しかし、今となっては誰も彼を笑わない。夢を叶えたアルフレッドは、人々の目に憧れとして焼きついたのだ。
それはもちろん、簡単に成せるような技ではなかった。大きな夢を公言することも、その道に迷いなく突き進むことも、余程の大馬鹿でなければ覚悟が伴うものだ。……アルフレッドならば、ただ『大した馬鹿』だったとしても頷けてしまうのだが。それはそれ、馬鹿と天才は何とやらだ。
思えば、アーサーは取り繕ってばかりだった。見栄っ張りな性格が災いし、皮肉や嘘を吐くことは日常茶飯事で孤立していたし、その孤立を更に最もらしい言い訳を作って誤魔化した。それは家族が見るかもしれない場面では頑なに守り続け、幼馴染との限られた空間でのみやっと気を解す流れを数年間繰り返していた。
それでも、アーサーは彼らに隠しごとを打ち明けることが出来なかった。結局話す前から気付かれていたことを知ったのは、幼馴染のひとりであるエミリーに酒の席で押し倒された時だ。
「……おい、ここで寝るなよ」
成人してからというもの一人暮らしをしているアーサーの家に、その日エミリーが遊びに来ていた。普段は酒なんか呑まない癖に、よく呑むものだと呆れてアーサーはエミリーを見守っていたのだが、彼女が床で寝転んだ所でさすがに見過ごせなくなって声を掛けた。エミリーはうんうん唸るばかりで起きる気配はなく、仕方なく抱き上げて寝室のベッドへ転がした。変化が訪れたのは、その時だ。酔っ払っていたはずのエミリーに腕を掴まれ、バランスを崩したアーサーはその身体に抱きとめられて。
「エミリー」
幼馴染の行動に驚いたものの、酔いの所為だと思ってアーサーは身を起こそうとした。しかし、離れるどころか気を抜いている隙に形勢逆転され、そこでようやく事態の深刻さを悟ったのだ。
「お前、自分が何やってるのか……」
「分かってるよ。酔ってないし」
不意にしっかりした口調でエミリーは返し、暗い寝室でベーッ、といたずらに舌を出した。心臓を凍らせるアーサーに、エミリーは寂しそうな表情を向ける。
「アーサー、私、知ってるんだ」
男の人が、好きなんでしょ。
決定的な一言だった。彼女は、歯に衣を着せない。単刀直入に図星を突かれ、アーサーは呆然とした。抵抗したら認める事と同じだと思い、良くできた人形のように呼吸まで止める。いつから、どうして。
「周囲には誤魔化せてたよ。けど、私はずっと隣にいたから、気付いちゃった。ううん、気付かないわけがない」
窓に掛かったカーテンが揺れる。明る過ぎる街灯がその隙間から割って入り、エミリーの青い瞳を照らす。知らない顔、だった。自分よりも歳下の彼女が大人びて映ったのは、その瞳がアーサーの知らない感情を帯びていたからだろう。
「私、貴方を愛してるの」
好きなの、とエミリーは続けた。息を飲むほど美しかった。けれどやはり、アーサーの心臓は応えない。
「エミリー」
心臓を凍らせたまま、アーサーはエミリーを抱き締めた。お願いだ、お願いだから溶けてくれと祈りながら。エミリーを愛してるのはアーサーだってそうだ。けれど、どう捉えても、その感情が親愛以上に届くことはない。
「私を愛さなくてもいい。それに酷いワガママだって分かってる、けど私、アーサーとの子どもがほしいんだ」
抱き寄せてきたアーサーにしがみつきながら、エミリーは心情を吐露した。早鐘のように震えている心臓は、夢を持つ少女のものだった。夢、夢、そうだ。みんな、夢を持って生きている。なら、俺は。俺は?
手探りでいい、彼女と生きてみたい。そう思ったのは真実だ。彼女と肌も血も通わせて、いっそ生まれ変わりたい。隠しごとばかりの意識の雨の中から抜け出して、真昼の世界に逃げ込みたい。たまらなく息苦しくて、アーサーはエミリーの唇を奪った。耳鳴りがする。きっと雨の音だ。
◯
お腹が空いたんだぞ、と揺すり起こされ、缶の転がったリビングをふらふらと歩く。酒を渡したのはアルフレッドの癖に、あの批難する目つきはなんだろう。冷蔵庫を開いてみるが、当然何も入っていない。
「……お前、俺を小間使いか何かだと勘違いしてるのか」
それでも渋々財布を取り、近くのファーストフード店まで出る支度をする。アルフレッドの趣味なら覚えているし聞かなくても済むだろうとマンションの扉を開き、ちゃっかり着いてきている弟分の気配を感じて振り返った。
「なんだよ、買ってきてやるから座ってろ」
「俺もスーパーに用があるんだ」
「は……? 寄るのはスーパーじゃねえぞ」
アルフレッドとの齟齬に気付いて瞬きすると、アルフレッドの方もまた首を傾げた。それから気がついたのか、どこか複雑そうな色を眼鏡の奥で浮かべる。
「でもほら、君いっつも頼まなくても作ってたじゃないか! あの消し炭……」
「消し炭じゃねえよ!」
暫く趣味だった料理が遠ざかっていたせいで作るという発想に至らなかった。それに、消し炭と評してまで朝から無理に与えることもない。作ろう、という気分にならないアーサーを前にアルフレッドは不満そうに唇を尖らせた。
「じゃ、行こう。スーパー。仕方なく食べてあげるから作ってもいいんだぞ」
「だから、無理すんなって」
「ハリー!ハリー! とにかくお腹が空いたんだぞー!」
「だぁもうっ、分かったよ!」
何なんだよお前……とぼやくも馬鹿力に背中を押されて自宅を後にする。フランシスからの連絡はまだ来ていないし、朝から行かずとも問題ないだろう。思考回路が読めない幼馴染のために、久しぶりに腕を振るおうとアーサーは少し機嫌を良くした。
手先の細かい作業に没頭することはアーサーの趣味だった。身近な誰かのことを考えて、素直になれない気持ちをそこへ綴じ込めるのだ。中でも縫い物は得意だが、一番好きな調理は周囲にことごとく酷評を受けている。余計なものが多い、と批判めいたアドバイスを受けても、その余計なものが何なのかアーサーには理解することができないのだ。
初めてキッチンに立ったのは、まだ幼い頃にジョーンズ家の両親の帰りが遅くなった時だ。何でも大雨の影響で道路が渋滞しているとかで、二人ともすっかりお腹を空かせていた。それを見兼ねたアーサーは、レシピ本を片手に見よう見まねで作り始めたのだ。結果は案の定黒焦げな物体が生まれたが、アルフレッドもエミリーも、美味しいと笑って完食したのだった。暖かい火がぽっと胸に宿り、心臓を中心にじんわりとそれが広がっていくえもいえぬ感覚。あれは、恐らく『幸せ』という類のものなんだろうと思う。アーサーが成長すると共に二人も育ち、やがてアーサーの手料理に反抗を示すようになっても、彼らが出した料理を食べ切らないことはなかった。
「相変わらずマズいなぁ」
「うるせぇ、黙って食え」
キッチンからは焦げ臭い空気が漂い、お皿の上に鎮座した物体は加熱のし過ぎで原型を留めていない。フランシスが見たらきっと卒倒モノだろうと思ってアーサーは皮肉げに口の端を持ち上げる。
「大体、散々ねだったのはそっちだろ」
「そんなことしてないぞ」
どの口が言うのか、アルフレッドはすっとぼけてアーサーの手料理を咀嚼する。噛むごとにガリガリと不穏な音が立つ。
「ねぇ、アーサー」
普段通りの読みづらい表情で、アルフレッドが呼びかける。何だと視線で促せば、口の周りを汚したままアルフレッドは口を開いた。
「誰かに恋をしたことはあるかい」
会話の延長線上で問うには相応しくない言葉だった。どういう意図かを計りかね、アーサーは瞳を揺らした。
「どういう意味だ」
「初恋だよ。君の恋愛観にきっかけは存在しなかったとしても、気付く前兆はあるはずだろう」
思わず渋面になる。性の対象が同性に向いていることを自覚しただけで、その事実をこれまでひた隠しにしてきただけあって同性の誰とも関係を持った試しがアーサーにはない。殆どの相手が雑誌やビデオだ。そこに誰かを重ねたことはない。……ないが、初恋と呼ぶには淡いものにしてもそれに近い何かを覚えている。
「……絵画だ」
「絵画?」
「実兄とは疎遠なのは知ってるだろ。その人が、一度だけ俺宛てにポストカードを寄越したことがある」
それは著名な人物が描いた絵でも、ましてやプロの画家が描いた絵ですらなかった。子どもが一生懸命に気取って描いた、ひとりの少女がそこにはいて。
「こっちと海外をよく往き来している人だから、あっちにも知り合いは多いんだ。その中のひとりが新鋭の画家で、そいつは兄へ昔に描いた自画像のポストカードを贈ったんだと」
当然兄は関心を持たず、結果としてアーサーに流れてきたのだ。そこまで話して、まだ納得がいかないのかアルフレッドは口をへの字に曲げる。
「それだと女の人が描いた小さい頃の絵を貰っただけじゃないか」
「ところが、少女の正体は男なんだ。ちなみに兄に自画像を無理に押し付けた男には顎髭がある」
思い当たる人物が浮かんだのかアルフレッドが呆れた表情になる。しかし兄に少女の正体を明かされた時、アーサーはストンとその事実を消化しただけだった。アーサーにとって肖像を少女と勘違いしたのも本当だが、性別は些細な問題でしかなく、アーサーはそのカードを手放さなかった。それも他人との齟齬に気がついた時に引き出しの奥へ隠してしまったのだけれど。あれはどこへやっただろう、すっかり見た目は変わってしまったが、ひょんなことにこうして出逢えたのに。
「大事なものを奥へ奥へ仕舞いこんでしまうのは、俺たちの悪癖だね。アーサー」
やさしく、どことなく寂しげにアルフレッドが瞳を細める。俺たち、にはどこまでが含まれているのだろう。ふたりだけに通じる語りというよりも、もっと大いなる何かに問いかけているようだった。
「そうだな」
陽だまりから生まれたようなアルフレッドにも、隠したい何かがある。それも当然の話なのに、胸にチリリと小さな火傷のような痛みを覚えた。見えるものは同じでも、感じるものは違う。そのことをアーサーはよく知っている。己に目を背け続けていただけに、大切な人の痛みにさえ鈍感になっていた情けない自意識に気が付いて唇を噛んだ。
「だから、思い出したなら紐解いてあげなくちゃいけないよ。今だってそうなんだ、古いものはみんな、もっと不器用だから」
それだけ愛を込めた真実を、忘れてはいけないんだ。アルフレッドは話す。エラそうに、とアーサーが軽口を叩けば、事実エラいからねと恐竜博士サマは胸を張った。それからアーサーは、微かに笑ったのだった。
◯
夕方、フランシスの家を訪れると準備を終えたらしい家主はにこやかにアーサーを招き入れた。ヌードモデルの経験がないアーサーは恥ずかしいのを承知でどうすればいいのかをフランシスに問う。
「そうだな、まず寝室で脱いできて。今回はこれを被ってもらうから……お前が見られたくない部分を隠して」
そう応えてフランシスはすっぽり身体を包める大きさの、真っ白なシーツのような布をアーサーへ手渡した。始めから全てをさらけ出すわけではないことを知り、こっそり胸を撫で下ろす。
「……それから始めようか。まずは薔薇色の雨の日から」
2.
思考の端にいくつかの記憶がチラつく。雨宿りの美術館、人工の照明に照らされた、一枚の大きなキャンバス。
エミリーと別れ、地元の教員を辞め、ツテを頼りにやってきたのがこの街だった。菊とは挨拶を済ませていて、いけ好かない同僚とも顔を合わせた。その頃のアーサーは、地に足着かない日々の生活を誤魔化すように、休日もアルバイトで埋め合わせただひたむきに働いていた。身体が重いな、と感じたのはとある雨の日のこと。その日は傘を忘れて、どうせ小雨だと屋根のない通りへ出た。一歩進むごとにアスファルトに自我が溶けていくようだった。このまま自宅へ帰っても頭痛が増すだけで眠れる気がしなかったアーサーは、不意にキュレーターの仕事をしているマシューから貰ったチケットのことを思い出した。美術館なら空調も効いているし、そこで絵を眺めていれば多少は頭痛も紛れて雨宿りにも最適だ。考えれば考えるほど妙案に思えてきて、アーサーは帰りの電車を途中で降りた。ぱらぱらと身体に当たる雨をものともせず、スーツの肩口を濡らしたまま閉館間際の美術館に訪れた。そして、アーサーはフランシスの絵画を目の当たりにしたのだ。
「そこで、あの絵を見た」
薄手のシーツで身体をすっぽりと覆い、指定されたイスの上で素足だけをさらす。親指の爪先を床に滑らせ、そこへ視線を注いだ。緊張でまだ顔が上げられないのだ。
「始めは何の絵なのか分からなかった。色はゴチャゴチャしてたし、並べられた図形が窓枠だと気付くまでにも時間を掛けた」
けど、とアーサーは続ける。不意に眼前に広がるキャンバスへ、アーサーをあやふやな存在にしていた雨音のような耳鳴りが、吸い込まれていったのだ。共鳴した、とアーサーは思った。白い窓の外側で、色鮮やかな雨が地面を打っている。薔薇色だ。灰色の雲を染めるほどの祝福が、空から溢れて。
「目が、離せなかった。俺の見たい夢はこれだったんだって。ただ、無条件に許されたかったんだ」
それは家族か、或いは他人に向けた想いだったのかもしれない。アーサーの告白を、受け入れて微笑んでほしくて。何も悪いことじゃないと祝福してほしくて。
でも現実は、さながら冷めたスープだ。
厳しくマナーを教えられて育ったが、家族と食卓を囲んだ経験がアーサーには乏しい。家に帰れば、冷蔵庫には冷えきった料理があった。アーサーは食事を温め直し、それらがまた冷たくなるまで誰かの帰りを待っていた。鍋の底は何度その工程を繰り返しても焦げてしまって、でも誰も、そのことを叱ってはくれなかった。
「アーサー、お腹空いた」
だから、アーサーにとって温もりを教えてくれた幼馴染の存在は掛け替えのないもので。兄のように振る舞えるその立場も、特等席に変わりない。
それでも『家族』へのコンプレックスは未だアーサーの中で根強く残っている。
絵画に共鳴したからといって、コンプレックスが消え去ることはなかった。しかし、ハッと夢から覚めてキャンバスの前に立つ自分を再認識した時、頭痛はもう治っていた。
「わざわざ薔薇を届けたのは、その……どうにかして伝えたかったんだ。遠回しでも、あの時の素直な感想を」
「エミリーにも話したんだろう」
誰から聞いたか知らないが、フランシスがそう口を挟んだことを怪訝に感じる。キャンバスと向き合っているその男へアーサーが疑いの視線を向けると、フランシスは微笑んだ。
「やっと見たな」
「ばっ……!」
バカ、と罵ろうとして息を詰めた。微笑を向けられた程度でどきりとした自分に信じられない気持ちになる。
「アルフレッドから聞いたんだ」
「……他人に何でも話すんだな、アイツら」
怒った、というよりも拗ねるようなアーサーの表情に、フランシスがまた笑う。
「エミリーは期待してたんだ。だから、アルフレッドに託した。多分だけど……」
一度言葉を区切って、色男は自身の顎に指を添えた。清潔に整えられた髭は、フランシスを美しくも大胆に魅せる。
「俺とアーサーが、どうにかなることを」
「どうにかって何だよ」
「恋人になる、とか」
精一杯の顰め面をして、アーサーはフランシスを睨め付けた。その場の空気で口にしていい言葉とは到底思えず、視線に軽蔑を混ぜる。しかし、やはりフランシスを罵ることができない。
「……ンなこと言ったってお前、恋を知らないんじゃなかったのか」
「それでも、愛なら語れる。恋が何なのかは今お前が教えてくれただろ」
一瞬警戒心が解け、アーサーはきょとんとした顔になる。フランシスには絵画の感想を口にしただけで恋の話などしていない。
「お前は、薔薇色の雨に夢を見た。それはもう夢中に、恋をしている人間とそっくりの表情をしてさ」
画材を置いてフランシスは立ち上がった。未だ体勢を変えずにシーツに包まるアーサーへと近づき、作業用エプロンのポケットから何かを取り出した。抵抗する間も無く顎を掴まれ、その片手に握ったものでアーサーの唇をぐりぐりと塗り始める。ようやくそれが口紅だと気付いた頃には、乱暴な手つきで塗りたくられていた。その動きがクレヨンで家の壁に落書きをするような無邪気さだからか、紅色は口の端に飛び出してしまっている。
「……うわっ」
その行為を半ば呆然として赦してしまっていたが、シーツを剥がされてさすがにアーサーは声をあげた。話と違う、と目に見えて焦るアーサーをじっと見下ろし、フランシスが口を開く。
「隠しごとは無しにしよう。お互いに、だ。ここでは。この家の中だけでもいい」
それから早急に、真っ赤に染まったアーサーの唇へフランシスがキスをした。気付けばアーサーはフランシスの腕に閉じ込められていて、何度も何度もその場で唇を重ねる。お互いに血を流しているようだった。二人して口元を紅くし、目まぐるしくキスを交わす。
「……やめろ!」
やっとのことで唇を離したアーサーは、身体を仰け反らせてフランシスを拒んだ。自分は一糸纏わぬ姿でイスに座らされたままだというのに、なんてことをする男だ。
「最初から、これが狙いだったのか」
「隠したいところを隠せって言っただろ」
吐き捨てるようなアーサーの問いにフランシスは応えず、勝手に話を進めていく。
「お前は、全身を覆った。でも、暴かれたがっている」
「そっ……んなの、お前がまた勝手に……!」
フランシスとまともに視線を合わせられずにそっぽを向けば、腕を捕まれて強引に立たされる。しかし微かに怯えるアーサーへ大きなシーツを再び被せるフランシスの仕草はあくまで優しい。
「分かるんだ。そういう瞳(め)を、俺はよく見てきた」
からかわれている気がして弾けたように顔を上げれば、そう捉えるにはあまりにも泥くさいフランシスの瞳があった。美術品を眺める目つきとは到底思えず、カッと身体の芯が熱くなる。
「……俺をどうしたいんだ」
「どうされたい?」
布越しにフランシスの片腕がアーサーの腰へ回る。心拍数が苦しいほどに速い。だんだんと吐く息が浅くなり、呼吸の仕方を忘れかける。
「真っ赤だよ、坊ちゃん」
それは口紅のことだろうか。きっと違うが、相応しい返しが思いつかない。フランシスの手のひらがアーサーの頬に触れる。
「お前のことをもっと、もっと知りたいんだ。唇の形も、肌の温度も、触れられる限り全部」
「……欲張りなやつ」
存外好意的なトーンになり、知らず口元が緩んだ。さっきからアーサーの頬を滑る手にくすぐったさを覚えた所為でもあった。
「教えてくれる? 俺専属のモデルさん」
「起用して直ぐ肉体関係を持つのか。お前の人となりがよく分かった」
「意地悪言うなよ」
やっと調子が戻ってきたアーサーの髪や額にキスを落とし、それからフランシスは軽々とアーサーの身体を持ち上げた。さすがに驚いてうわっと声をあげたアーサーには取り合わず、寝室の扉を足で開ける。フランシスはアーサーをベッドに降ろすと、被せたままのシーツを優しい手つきで開いた。
「緊張してる?」
「……してる」
「怖いんだろ」
「分からない」
フランシスはまたアーサーにキスを施した。唇へ、甘く痺れるようなキスを、丹念に。
「心配しないでいい、直ぐ正直になれる」
「……変態」
アーサーの悪態を最後に、今度はお互いを縫い付けるように深く、口づけをした。渇いた口内をフランシスの厚い舌が満たしていく。今はただ何も考えないでいようと、室内が反響して出来る静寂が呼ぶ痛みを耳に感じながらアーサーはそっと目蓋を閉じた。
●
誰かが窓を叩いている。
それは雨で、昔日で、肖像だった。
だからもう、行かなくては。
●
パタン、と、扉の閉まる音がして、フランシスはふっと目を覚ました。目元を無造作に擦って隣を見れば、在ったはずの温もりがない。
「……アート?」
しかしそこにはもう温度は残っておらず、扉の音で目を覚ましたのではなかったことに気付く。その音は、名残惜しくも営みを綴じ、眠りに着いた後に明け方遠くからぼんやりと聞こえたものだった。
じわじわと焦燥がフランシスの手足を苛み、布団を跳ね除けて起き上がると素早く衣服を身に纏う。アーサーの携帯はベッドサイドに投げ出されたっきりで、馴染みの香水を吹きかけるのも忘れてフランシスは寝室の扉を乱暴に開ける。どうにか痕跡を辿ろうと別室を見て回り、洗面台の前で動きを止めた。
「……馬鹿だな、お前も」
それから俺も。フランシスは独り言ち、鮮やかとは言い難い騒々しさで支度を済ませると静かな朝の通りへ飛び出していった。
next……