初めて筆を握ったのも、自分の為だった。
1.
目を覚ましたらまずシャワーを浴びる。あくまでさっとお湯を被る程度で蛇口を閉め、着替えも手早く終わらせて愛用の香水を吹きかければ身支度は手早く済んだ。特に用事がない時でも決まってこの朝のルーチンをこなしている。理由は単に、それが習慣だからだ。窓の外はまだ薄暗い。お気に入りのベーカリーが開くのももう少し後だろう。普段は放りっぱなしの電子類から時計を取り出して時間を確認し、自慢の金髪を片手で適当に梳きながら冷蔵庫を開けた。昨日の夕食に作ったキッシュは後で温め直すとして、付け合せにサラダでも作ろうか。
フランシスはそこで来客を想定した朝食作りに励んでいることに気がつき、口元に微かな笑みを浮かべた。ここの所動きにリズムがあるのもそのお陰だろう。友人と呼ぶには複雑な、少なくとももう他人ではない相手のことを考える。これまで想定外な出会い方をした友人は老若男女分け隔てなくいたが、あの男とは殊更愉快な繋がり方だと思う。
「どうなりたいのか」と尋ねられたことがある。今の所フランシスとしては、「どうもしない」のが正直な答えだ。求められれば応じるが、アーサーがフランシスにする基本の姿勢は警戒と拒絶だ。半ば義務のように食事を共にするのも、仕事の一環として飲み込んでいるからなのだろう。しかしそれは短期間の話で、季節が移り変わる頃にもテーブルを挟んでいるとなればこの食事を気に入っているとみて良いとフランシスは思うのだ。
どうもしない、ではあるが、アーサーとの名前のない関係性に居心地良さを感じている自分がいるのも事実だった。悪く言えば、面倒臭くなくていい。
フランシスは、人を愛し、愛されることこそ芸術だと考えていた。だから何に対しても博愛の心を持ち、平等に愛を注いだ。そんなフランシスの描く絵画は他人を惹きつける華やかさがあり、直接的だからこそ相手を陥落させる強みがあった。しかし絵画を通じてフランシスと出逢った者もそうでない者も、彼に縋りながら決まってこう口にするのだ。
「貴方の作品は、貴方その者だ」
揃いも揃ってフランシスを、延いては博愛を拒む。フランシスにはそれが気に入らない。フランシスにとって絵画とは己を映し出す鏡だ。彼らが言うことは真実正しいが、言葉の裏に込められた絶望にがっかりしてしまう。どうして誰しもが特別を欲するのだろう。欲求不満を埋めるだけではどうして満足がいかないのだろう。皆がフランシスの欠落を指摘する。その形がどういうものかも教えずに、その背に諦観を滲ませて去っていく。
「それはね、兄ちゃん」
幼い頃から馴染みのある青年は、普段と変わらない調子で告げた。後に美術界で頭角を現すことになるフェリシアーノという青年だ。
「みんな、兄ちゃんに恋をしていたんだよ」
フランシスはまだ、『恋』が何かを知らないでいる。
◯
「お前、なんでエミリーと結婚したの」
唐突なフランシスの質問に、毎度ながら不機嫌そうにフォークを動かしていたアーサーの手が止まった。それを目敏く察知しつつ、フランシスはわざと視線を皿の上に向けたまま返事を促した。
「今する話か」
「いつ聞こうが変わらないと思って」
アーサーはふん、と鼻を鳴らすとカフェオレの淹れてあるカップを持ち上げた。
「ならその先も分かるだろ。わざわざ俺がお前に語るとでも」
「人助けと思って教えてよ」
アーサーの眉が訝しげに顰められ、そこでやっと向かいのフランシスへ目線を合わせた。同時にフランシスもアーサーを見つめる。
「なんだ、人助けって」
「次作のヒントが欲しいんだ」
意外にもアーサーは言葉を窮した。仕事に関して真摯だからなのか、それともフランシスの次の作品をアーサーも気にしているのだろうか。
「プロポーズはあの子からなんだって?」
「聞いてるじゃねぇか!」
「そこだけだよ」
慌てたアーサーが立ち上がりかけた所為でテーブルが揺れ、食器同士が触れ合って金属質な音をたてる。どこ吹く風でフランシスはナプキンで口元を拭った。
「……他人の意見が必要なものなのか、お前の絵って」
「あれ、気付いてた? そうだよ、俺の赴くままに描いてきたさ。今までは」
フランシスがそう応えると、アーサーは益々不機嫌そうに睨みつけてきた。よく分からないがしくじったか、とフランシスの口元が引きつる。
「つくづく卑怯なヤツだな。他人には語らせておいて自分は逃げるつもりだろ」
「そんなつもりは」
「ある癖に。死んでもお前の娯楽になんかなってたまるか!」
フランシスは呆然として席を立ったアーサーを見上げる。それから荒々しく扉が閉まる音がしても、いつかのように引き止めることも忘れて静止していた。娯楽になんか、と怒鳴ったアーサーの噛みつくような視線が消えてくれない。
「娯楽、か」
果たして自分は、これまでどのように人を愛してきたのだったか。
◯
「奇跡です……!」
肩肘をつき、スケッチブックに鉛筆を滑らせているフランシスの所へいつの間にかマシューが姿を見せていた。何やら温かい視線を向けられ、背中がむず痒くなって一旦鉛筆を置く。
「僕は気にせず続けてくださいよぉ」
「いや、さすがに気になったっていうか……そうだマシュー、カフェオレでも飲む?」
「マイボトルがあるので大丈夫です」
マシューは鞄から魔法瓶を取り出し、何故だか大事そうに両手で握りしめた。フランシスが不思議に思っているのに勘付いたのかマシューは相変わらずか細い声で言葉を続ける。
「アーサーさんから頂いた茶葉で淹れた紅茶なんです。……良かったら飲みますか」
フランシスはバツの悪い心地になり、そっとノートを閉じた。
「ああ、うん……そうだね、ちょうだい」
「はい、どうぞ。けど、フランシスさん。スケッチは続けてくださいよ」
「……」
交換条件があったとは知らなかった。アールグレイの良い香りを吸い込むも苦い笑みがこぼれる。ちょっとしたおふざけだとは思うが、のほほんとしている割に抜け目のない男である。
バラバラとページを捲り、先ほどのスケッチを探し出して手を止める。じっとそれを見下ろして、フランシスは盛大なため息を吐き出した。
「ねぇ、マシュー」
「はい」
「アート……アーサーって、お前から見てどんなヤツ?」
マシューは何度か瞬きをして、それからへにゃりと相好を崩して応える。
「優しい人です。僕もアルもエミリーも、三人揃って甘えてました」
やっぱり、これって卑怯なんだろうか。
頭の片隅で躊躇し、しかし後にも引けずフランシスは問いを重ねた。
「そんなヤツが、なんで借金取り紛いの仕事をしてるんだ」
途端マシューは困ったように眉尻を下げ、首を横に振った。心なしか癖っ毛まで下向きに垂れたように見える。
「そこまでは、僕には分かりません。けど、アルフレッドならきっと知ってます。アイツは情報通ですから。……もうアルと話をしたことはあるんですよね」
「うん、少しだけね。情報通っていうのは、エミリー経由で何か聞いてるってこと?」
聞けば、マシューの瞳が悔しげに細まった。内心首を傾げるフランシスに、珍しく刺々しい口調でマシューは応える。
「彼女経由でもありますけど……アーサーさんの事となると尚更鋭いんですよ、アイツ」
アルフレッドとエミリーは双子姉弟だが、アルフレッドにそっくりなマシューは二人からして従兄弟の立場だ。身内に近しくても蚊帳の外、と思いきや余程親しい間柄なのか遠慮を感じさせない言い様でマシューはむくれる。慕っている兄気分を独占された苦い経験でもあるのだろう。
「本田さんからでも理由は聞けると思います……詳しく知りたいなら、アルに」
「そっか、ありがと。ちょっと引っかかっただけだから、詮索されたとか言うのは無しだぜ」
「やだなぁ、告げ口なんてしませんよ」
マシューはおかしそうに笑い、ポケットから携帯を取り出した。連絡帳をスライドさせながら横目でフランシスの手元を盗み見る。
「……たまには、ギャラリーにも顔を出してくださいね」
フランシスが鉛筆を動かす手を止めることはなかった。ただ微かに頷いたのか、掻き上げてある前髪の一房が垂れる。マシューはひとまず満足し、着信ボタンを押した。
◯
アルフレッドが宿泊しているのは、本田家の客間だった。監視だなんだとアーサーが不満を垂れていたものだからてっきりアーサーの自宅で寝泊まりしているのかと思っていたのだが、そうではないらしい。案内されるままそこへやってきたフランシスは、和の趣深さからは懸け離れ見るも無残に荒れ果てた室内を、表情を引攣らせて眺めた。アパートメントの大改造ならフランシスも仕出かしたものの美しさを損なう乱雑さに言葉を失う。
「遠慮しないで好きに座ってよ」
アルフレッドの言葉で仕方なく周囲の本や空箱を避けて適当に腰掛ける。敷きっぱなしの布団の上でノートパソコンを使っていたらしいアルフレッドは、画面を閉じると顔を上げた。
「君はアーサーが何で今の仕事をしてるのかが知りたいんだっけ。疑問なんだけど、それって出向いてまで知りたいことなのかい」
「ただの談笑で終わるつもりだったんだけどね。マシューが連絡までしてくれたんだ、断るのも気が引けてさ」
フランシスの回答にアルフレッドは唇を尖らせた。やや責めるような視線からフランシスは困り笑いで逃れる。
「良い迷惑だよ。君のおかげで俺はマシューにお小言を吐かれたんだぞ! ここへ来るなら事前に連絡をしろ、反省の印として君と会うようにってね」
汗を掻いているコーラのキャップを捻るとアルフレッドは一気に呷った。炭酸に顔を顰めることなく次に用意されている和菓子の包装を剥がす。
「あの流れだと断れないだろ。だから俺も快く返事をしたんだ。君がそれを本音だと言うんなら、俺は何も喋らないぞ」
「……目敏いな。そんなにアートが大事か?」
聞きなれない愛称にやや首を傾げ、それがアーサーのことだと分かると口に放り込む寸前だった和菓子を摘んだままアルフレッドは呆れ顔になった。
「何だいそれ。君、俺とアーサーを何だと思ってるんだい」
「アイツはお前のことを監視役と。マシューは、『アーサーさんの事ならアルにお任せ』だとさ」
アルフレッドは憮然として手を膝の方まで下ろした。フランシスも何らかの齟齬に気付き始めてアルフレッドの次の言葉を待つ。
「監視の事なら彼の勘違いだぞ。それに俺はアーサーをマシューほど熱心に慕う趣味もないね!」
「……だったら、ここへはどうして?」
「仕事だよ。近々大きな恐竜展を開くらしいからね、協力を仰がれたんだ」
仕事、恐竜。脈絡の無さそうな単語を不意に並べられ、フランシスは頭を抱えたくなった。意志の疎通がうまく取れている気がしない。
「……仕事と恐竜に何の関係があるんだ」
「俺が恐竜博士だからさ!」
突然のカミングアウトに、なるほど恐竜博士、と頷けるわけもなくまじまじとアルフレッドの顔を見つめた。見た目だけなら大した好青年である。
「それ、まさか架空の設定とかじゃないよな」
「夢がないなぁおっさん! 俺の職業は正真正銘の恐竜博士だよ。信じられないなら俺の名前で検索してみなよ」
「……おっさん……」
おっさんと呼ばれたことに多大なダメージを受けて胸を抑える。今まで柔軟な方と思って生きてきた自信が脆くも砕け散った。
「年って……取るもんじゃないね……」
「面倒だからもう君の本音は掘り下げないでおくぞ! ほら君、本題はアーサーなんだろう」
……そうだった。フランシスはどうにか気を取り直し、目の前の若者に向き直る。
「アーサーだけど、元は高校の数学教師をやってたよ。なんで数学かって、彼に英語を教えさせたらとんでもないことになるからね」
今やもう多言語社会で母国語以外を話す人は珍しくないのだが、アーサーはどうやらブリティッシュ英語に対して並々ならぬプライドの持ち主らしい。かなり前から日本の文化で暮らしていながら譲らないのは家庭の教育上だろうねとアルフレッドは付け足した。アーサーの家族は、異常なまでに融通が利かない『エリート』の集まりなのだという。
「アーサーが辞表を出したのは離婚してからだよ。退職の話を聞いてエミリーが菊を頼るように勧めたんだ」
アルフレッドが満足な答えを相手が得られたかを確認するために考え込んでいるフランシスの表情を窺う。
「……アイツは、何から逃げてるんだ」
「それは本人に聞きなよ」
不意にアルフレッドの青い瞳に鋭さが宿り、射抜くような視線をフランシスに向けた。それに気付いてフランシスも瞳を細める。
「気をつけてくれよ。君とアーサーとじゃ価値観が違うんだ」
やっぱり大事にしてる、と思ってフランシスは肩頬の口端を持ち上げて笑んだ。挑発的ともいえる表情のままアルフレッドへと問う。
「それは……俺がアイツに気がある程で話を進めてるって事でいいか」
「あれ、違うのかい? さっきから興味津々じゃないか」
存在を思い出したかのようにアルフレッドは桜を模った砂糖菓子を口に放り込んだ。オマケにまたもやコーラを呷る。見ているだけで気分が悪くなりそうな光景だ。
「もう知ってるだろうけど、彼はゲイだよ。聞くところ君はそこに拘るタイプじゃなさそうだね。それでも、アーサーは」
そこで一旦言葉を区切り、珍しく思いあぐねてアルフレッドは宙を仰いだ。
「……アーサーは、そうじゃない。どちらにも思いきれずに、中途半端なまま自分を責め続けてる、トンデモなく面倒な人さ!」
……ふと、脳裏に過去の映像が過ぎった。
予報外れの雨でスーツを肩まで濡らした寂しげな背中。長い間じっと顔を上げ、照明が当てられた絵画を眺める独りの男。
「……いや、まさかな」
重なりかけた思考を追い払い、フランシスは立ち上がった。脚を伸ばせるスペースもなく無理な体勢で座っていたからか身体のあちこちが痺れている。
「色々聞けて良かったよ。それじゃあまた」
「そう。なら君にもうひとつ教えてあげる」
襖に掛けた手を止めて、フランシスはアルフレッドを振り返った。アルフレッドは顎に指を添えながら辿々しく言葉を紡ぐ。
「えっと……なんだっけ、バラ……そう、『薔薇色の雨が降る』」
「お前」
突如フランシスは声に動揺を滲ませ、身体ごとアルフレッドに向き直った。眼鏡の奥でアルフレッドは相変わらず平然としている。
「それ、どこで」
「エミリーからの伝言さ。いつかの手紙で、アーサーがそう綴っていたって」
二の句が継げなくなり、ぼうっとした表情のままフランシスは襖を開けて廊下へと出た。またねと声を掛けるアルフレッドの声さえ耳に届くことはなく、鈍い足取りでその場を後にした。
2.
まだフランシスが幼い頃、彼は自他共に認める美少年であった。しかし、これが少年期にだけ許された神秘であることを、フランシスは知っていた。
その美貌はカメラを使えば一瞬で記録出来たが、それではあまりにつまらない。
そう思ってキャンバスに向き合い、自分自身の記憶に刻み込むつもりで始めたその暇潰しはどういうことだか評価され、気がつけば脚光を浴びていた。神の子だ、天才だと周囲は彼を褒めそやした。フランシスはその事が純粋に誇らしく、そこからは絵画の腕を磨いて画家の道を目指した。
愛のため、フランシスは筆を滑らせる。
この世界は自分を中心に回転を続けているのだと心底から信じて、自己愛を、博愛を、人類愛をもキャンパスの上へ描き出す。
全てのものは己が内で帰結を迎える。フランシスの存在そのものが詩になり、五線譜に見立てた運命を軽やかに跳ね回ってみせた。
そんな『真実』が翳りを見せ始めたのは、ひとりの青年が頭角を現してからのことである。
名を『フェリシアーノ・ヴァルガス』。
現代美術雑誌を購読しているものならばその名を目にしたことのない者はいないだろうし、最近では彼を中心とした展覧会さえ開かれたという程の人気上昇振りである。フェリシアーノの一つの枠には留まらない手広い才能は本物だったが、フランシスが重要であるのは常に自分であったが為に初めはそれほど気にも留めていなかった。
ただ、それには他の理由もある。フェリシアーノとは古くからの顔見知りなフランシスは、彼が如何に日常生活に於いて鈍臭いかを心得ていて、その代償として絵画で花開いたのだろうと若干同情すら覚えていたのだ。
だから彼の『真実』は、そんなことで翳ったりはしなかった。
「……恋だよ」
雑誌の特集記事、または通りかかった電気屋で流れていた画面の中。無意味なコール音に塗れた場所で、フェリシアーノのインタビューの様子を目にしてフランシスは手にしていた雑誌を気がつけば強く握りしめていた。
どうやら女性らしいインタビュアーは隙あらば口説こうとしてくるフェリシアーノに困惑しながらもマイクを向けて問いを重ねていっている。
「この絵のタイトルは、『初恋』だよ」
初恋。
そう題された一枚の絵画は、多くの人間が心惹かれた一枚なのだという。背景はヴェネツィア、水の都。今にもゴンドリエーレがオールで水を掻く音が遠くから聴こえてきそうな程写実的に表現されている。
……その、橋の上。
じっと睨むような目つきをしたやけに印象に残る青い瞳に、小さな影に似つかわしくなく気難しい表情で立っている少年がそこには描かれていた。一見不機嫌そうにも、照れているとも解釈できる複雑な色味は簡単に盗める技法ではないだろう。大人びているようで幼さを捨てきれない濁りなど、人間観察を徹底しなければ至らない領域に達していた。
それは確かに、たくさんの人々に愛されるのも頷ける。しかし同様にフランシスがショックを受けたのもここだ。
誰もが、絵画の中の少年を目にして懐旧の念を抱いたと語った。しかしフランシスがこの絵を目にした時に思ったのは、そんなものではなかった。
フェリシアーノの絵画には、唯一ひとりを追い続けているが故に潜んだ物語が詰まっている。歓びも哀しみも、愉しさも憤りも、彼はそれを須らく『恋』と享受したのだ。
フェリシアーノの初恋は未だ熟れることなくその胸に在り続けている。きっとそれは永遠で、死ぬまでに報われることがなくとも『初恋』の遺骨ごと果てるつもりでいるのだろう。
フランシスには、それが恐ろしかった。
身が焦がれるほど愛し合うこともあるだろう。しかし、相手が去っても心中で唯一ひとりを想って生き続けるなど、フランシスには到底無理な話である。価値観は人それぞれであり、フランシスはこれまでそう思って他人の在り方に口を出すことはなかった。
しかしそこで、気が付いたのだ。
フランシスは、愛には色欲を持って応える。恋は、人の見る夢だ。だからフランシスは恋を知らない。それもそのはず、他人(ひと)に夢を見たことがないのだから。
報われない恋をして、また誰かに恋をする。それでも心の片隅で、ほんの微かな傷でもかつての痛みは残り続ける。いつか心のキャンバスに描いたロマンスは、灰になっても積もるのだ。
けれど、フランシスはその営みからは外れていた。己が不完全な存在であることに気付いて、豊かだった創造力は欠落し、次第に芸術は彼に微笑まなくなっていった。
それから。
◯
「外は雨のようですね」
ギャラリーに寄り、知り合いの女性学芸員との談笑にかまけていたフランシスは彼女の発言に目を瞬かせた。ギャラリーはもちろん室内であり、白い壁に飾られた絵画の群れのどこにも窓は見当たらない。首を傾げれば彼女はその方向を目線で示した。
釣られて視線を遣るとそこには金髪の男が一人立っていて、仕立ての良さそうなスーツが肩口まで濡れているのに気が付いてフランシスは合点がいった。
なるほど、外は雨らしい。予報では一日晴天だった覚えがあるから、雨宿りにでも入ったのだろう。ひとつの絵画を長い間見上げているものだから、フランシスもさすがに声をかけたくなってしまう。我慢は身体に悪いと近寄りかけて、そこに飾られた絵画を目にした途端フランシスの動きが止まる。
……今まで高い評価を受けてきたフランシスにも、美術界で駄作と評された作品は何点かある。しかしフランシスはそれで作品を捨てる性質ではなかった為に、売り手がつくまで堂々と飾るようスタッフに頼んでいた作品だった。スーツ姿の男が魅入っていたのはまさにその内の一つで、あまりにも熱心な背中に顔を一目見ることなくまた元の位置まで離れる。視界に入っては悪い、とその時は判断した為だった。
思えばフランシスの在り方を否定する時、あの絵は良く指差されていた気がする。ごちゃごちゃと見境なくフランシスの好む色で塗りたくったキャンバスの中央に、白い絵の具で窓を連ねて描いた。その窓は開けっ放しでカーテンすら掛かっていない。フランシスにしては、極めてシンプルな一枚だった。色彩こそ鮮やかだが、嵐が止んだ後や祭りが終わった後の静けさにも似た少し拍子抜けする空気が満ちている。だからつまらない、と。ここに感動性はない、と一蹴された。ただ『終わり』だけが漂っていて、風景の何処にも行き場がないのだと。
そうため息を吐かれ続けながらも照明の光を浴び続ける絵画を、男はじっと見上げている。このまま彼を眺めていてはいけない気がして、フランシスは黙ってその場を後にした。
◯
どうぞ、と渡されたのは、一輪の薔薇だった。唐突な愛の告白紛いの行為にフランシスは驚いて瞬きをする。
「えっと……これは?」
「昨夜、貴方が退出した後に件の紳士が。一度慌てたように出ていって、閉館前にこれだけ受付に渡して帰っていきました」
それでフランシスはてっきり購入したのかと思ったのだが、絵画は展示室に飾られたままらしい。随分気に入っていた風に見えたが、金銭的な問題だろうかと首を傾げながら挟まっていたメッセージカードを手に取る。
『薔薇色の雨が降るようだった。』
そこに記されていたのは、経ったそれだけの言葉で。しかしフランシスはそのポストカードへ視線を落としたっきり身動ぎをやめた。
ここのところスランプ気味のフランシスは、そろそろ一度ギャラリーから撤退するつもりでいた。もうその気持ちは固まっていたが、見知らぬ男からのその言葉に新たな光を与えられた気になる。
薔薇色の雨。……それはなんて、祝福に満ちた光景だろう。ふと、あの細身の寂しげな背中が甦る。雨宿りに立ち寄っただけだろうから、きっと再会は難しい。それでもまた、出逢えないだろうか。惜しむ気持ちに駆られ、フランシスは口元に微苦笑を浮かべた。
こんな願い、どうかしている、と。
◯
「なんや辛気臭い顔しとるなぁ」
本田家の門を開き、今まさに出ていこうとした所で背後から声が掛かる。いつ表情を見たんだと変に思って振り返ると、古馴染みのしたり顔がそこにあった。
「……トーニョ」
「ああええで、分かっとる。すれ違っても俺が見えへんくらい集中しとったんやろ?」
うんうん、と自身の寛容さを示すようにアントーニョは頷き、立ち止まったフランシスに歩み寄る。それからフランシスの両肩をがっしりと掴み、真正面から笑顔で告げた。
「ほんま悪趣味やね!」
「……あの、いきなり何の話?」
大体アントーニョの言いたい事は察しながらも言葉を返す。どうして誰も彼もがフランシスを責めるのか甚だ疑問である。お兄さんはもっと愛されたい!
「日頃の行い改めた方がいいんとちゃう? その内気付いたら墓場か地獄にいたってなっても笑われるのがオチや」
「誰に落とされるんだよ」
「そら今までの恋人か、あの眉毛やろ」
フランシスが押し黙ると、アントーニョはまた人好きのする笑顔で肩を叩いてきた。
「期待しとるで!」
「トーニョの薄情者!」
やんややんやと騒いでいると、お次は門前に新たな来客の気配がした。嫌な予感を抱いてそこへ視線を遣れば案の定当の眉毛……改めアーサーが冷たい目つきで二人を睥睨していた。
「退け。邪魔だ」
「アート」
思わず声を掛けるが、つい数日に怒らせたばかりである。当たり前にその後アーサーは一度としてフランシスの家を訪ねていない。当然無視を決め込まれ、無理矢理にでも入口を塞いでいる二人の間を通ろうと細い身体を割り込ませてくる。……そう、細い。今やあの日見た姿とよく似た背中が同一のものだと知ったフランシスは、咄嗟にすり抜けていくアーサーの手首を掴んだ。
「……離せよ」
「このまま俺の家に来て」
一瞬、何を言われたかが理解出来なかったのかアーサーは不意を突かれた表情になる。それから見る見る怒りで顔を紅潮させ、引き剥がそうと腕を乱暴に振った。しかし、その細腕は握られたままだ。
「オイ、テメェいい加減に……ッ」
「俺の事なら全部話すよ。お前に、聞きたいことがあるんだ」
アーサーの抵抗が止む。困惑の所為か瞳を揺らし、数秒の沈黙の内にアントーニョの方を振り仰いだ。
「……これ、本田に渡しておいてくれ」
アーサーは掴まれていない方の手でスーツの胸ポケットから仕事のメモを取り出し、アントーニョへ差し出した。意外にもアントーニョは素直にそれを受け取るとさっさと玄関の方へ歩き始める。
「ここはヘンなヤツばっかりで、ほんまに飽きひんわ」
いや、お前もだよ。
二人して懐中で息を揃えるも、アントーニョは既に二人への興味を失くして鼻歌交じりに家中へ消えていった。
3.
「俺ね、『恋』が何なのか分かんないの」
タクシーを降りてアパートの二階に続く階段を上る途中、フランシスはそう切り出した。長い前髪が目元を隠していて口元の微笑しか読み取ることが出来ない。
「恋愛をしたことがないワケじゃない。むしろ、たくさん経験してきたくらいだ。ただ、相手に未来を求めたことは一度もないんだ」
ドアの施錠が解かれる。外国人向けの造りな為、普段通り靴は脱がないまま室内に上がった。ここは元々外国人留学生や社会人の為に創られたアパートメントなのだ。
「フェリアーノの描いた絵、お前も見たことあるだろ。アイツにはあって俺にはないものが何だか分かるか」
いつだったか、アーサーが雑誌を開いていたことをフランシスは覚えている。それならばあの代表作も目にしたことがあるはずだ。
「健全な眩しさはねぇな。お前の絵は、お前の鏡だろ」
「そう、昔から誰かに憧れた記憶がないんだ。その無いものに気がついて、俺はフェリアーノを羨んだ。人として完全なアイツを見て悔しいと思った」
そこからだった。そこから、フランシスは何を描いても絵に不足を感じるようになったのだ。その結果、フランシスのアトリエは未完成の集合体と化した。今じゃ埃を被った白い布を捲るのは、アーサーくらいのものである。
「……これを見てくれ」
フランシスは一度別室に下がると、一枚のポストカードを持ってリビングに戻った。それを受け取ったアーサーは翡翠色の瞳を丸くした。ポストカードに印刷されたイラストは、アーサーが薔薇を贈った発端の絵画だ。
「て、テメェ、気付いて……っ」
「核心に至ったのは今日だよ。なぁ、お前はそれに『薔薇色の雨』を見たんだろ。それはどうして?」
「それは」
恥ずかしさからかアーサーは顔を朱に染め、ぼさぼさの髪の毛を更に片手で掻き混ぜる。
「……言えるかっ! お、俺のプライバシーに関わる……ッ」
「お兄さん、これでも努力して暴露したんだけどなぁ? 俺の娯楽にはなりたくないらしい眉毛ちゃんの意見が聞きたくって、正直に語ってやったってのに」
先日の発言を掘り返され、思わぬ反撃にアーサーは散々馬鹿にされてきた眉毛をキッと釣り上げた。応戦態勢である。
「……それを話すと、俺の価値観の話になる。俺に、誰にも聞かせたことがない話をさせようってんなら、それなりの対価を要求する」
英国紳士の言葉とはとても思えない発言に呆れつつ、フランシスは頷いた。
「いいよ、言ってごらん」
「画家フランシス・ボヌフォワの完全新作だ! これまでにないくらい本気で完成させる覚悟があるなら教えてやる」
腕を組み、挑むような目つきでフランシスの視線をアーサーが捉える。フランシスはそれを流すことなくしっかりと目の前の男を見据えた。
「望むところだ。それならアート、お前には最後まで俺に協力してもらう」
ピリリと両者共に神経を尖らせ、今にも撃ち合いが始まりそうな気概でフランシスは再びあの言葉を言い放った。
「俺の、ヌードモデルになってくれ!」
「……いいぜ、受けて立ってやるッッ!」
next……