1.
「絶対に、嫌だ!」
本田家の居間にて本日の報告をしていたアーサーは、菊に向かって断固拒否の姿勢で抗議した。その内容は言わずもがなフランシスの件である。
「あちらのお野菜の回収を頼んだだけなのですが……アーサーさんがそこまで拒むのは珍しいですね」
菊は言葉通り物珍しげに対面のアーサーを見て目を丸くし、首を傾げた。
「何かあったんですか」
「大いにあった!」
怒っているからか、それとも別の何かとも知れない理由で顔を朱に染めてアーサーは唇を震わせる。
「普通、頼むか? 俺相手にヌードモデルになれだの抜かしやがる男だぞ。これでホイホイ近付いたらヤツの思うツボだろ」
「お前、警戒って言葉知ってたんやなぁ」
真剣に語るアーサーの背後で襖が開かれ、アントーニョがひょっこりと顔を覗かせた。横槍を入れられたことによりアーサーの表情が更に険しさが増す。
「テメェには常に警戒してやってるから感謝するんだな」
「あ、そやった。懐いた相手にはとことん隙だらけの間違いや。堪忍カンニン」
陽気に笑うと、アントーニョはアーサーとは離れた畳の上へどさりと腰を下ろした。まだ何か言いたげなアーサーだったが、どうにか言葉を飲み込んでまた菊へ向き直る。
「だから、本田には済まないがそれは出来な……」
「お願いしますアーサーさぁんっ」
アーサーが口上を終える前に、またもや開け放たれた襖からひとりの青年が飛び出してきた。繊細な声とはアンバランスな巨体に後ろから抱き竦められたアーサーは態勢を崩し、その青年に凭れかかる形になる。
「うわっ、誰……ってマシュー? ど、どうかしたのか」
飛び付いた時に位置がズレてしまっている愛嬌のある丸眼鏡を片手で直してやりながら、顔を上に向けてアーサーは古馴染みのマシューと視線を合わせた。その光景を見てアントーニョが微苦笑を浮かべ、菊に目配せを送る。
「フランシスさん、長い期間展示会に参加してないんですよ。そればかりかもうずっと作品も出していない状態なんです。せめて一点でも出展出来るように漕ぎ着けろって言われちゃいまして……」
ようやく身体を離し、アーサーの横に並んでからマシューは話を始めた。普段は仕事場でも別段目立つことのないマシューだが、これまで何度かフランシスから作品を預かった経験もあって厄介ごとを押し付けられてしまったようだった。彼はお人好しな部分があるから出来るだけ期待に応えようと必死なのだろう。チャームポイントのくるりと跳ねた癖っ毛が力なく垂れ下がっていて、アーサーは自分まで心を痛める。
「……それで、俺にどうして欲しいんだ」
「是非、フランシスさんを刺激して欲しいんですっ」
マシューの発言にアーサーは若干頬を痙攣らせる。そのことに気がついたのか慌ててマシューは言葉を継ぎ足した。
「アーサーさんに会った後から画板に向き合っているのをよく目にするようになってて。最近では珍しい光景だったので、もうこれは、アーサーさんしかいないと思ったんです」
それがただの煽てでないことは、マシューの困り果てた表情から察せられる。アーサーは渋い顔になり、自身の身の危険とマシューの懇願を天秤に掛けた。もちろん、天秤はあっさりと後者に傾く。
「……気まぐれじゃない保障はあるのか」
「ありますっ、これを見てください」
マシューは携帯を取り出し、画像フォルダを開いてアーサーに提示した。菊とアントーニョもその後ろから覗き込む。
「あの、これがアーサーさんと会う前のフランシスさんのパレッドです。それで、これが最近のパレッドになります」
撮られていたのは幾分か使い古されてはいるが使われた様子のないパレッドだった。話しながらマシューは画面をスライドさせ、二枚目を表示させた。確かに一枚目とは異なり、パレッドには使われた形跡が残っている。
「二枚目はともかく、一枚目はいつ撮ったんだ」
「前にフランシスさんの捗り具合を試しにパレッドの写真を撮ってチェックしてたんです。結局分かりにくくて直ぐにやめたんですけど……」
思わぬところで役立ちました、と微笑むマシューを、そういえば柔和な側面とは違った用意周到で策師家な部分があることを思い出したアーサーは、力無い笑いを返した。末恐ろしい子である。
「物的証拠を持ち出されたらもうノーとは言えねぇからな……その原因は知らねえが、とにかく監視に行けばいいんだろ」
最終的に折れ、腕を組んでまだ悩ましげな表情のままアーサーは請け負った。アントーニョの言葉通り、身内にはとことん甘い男なのだ。
◯
フランシスが住むアパートメントの近くまでやって来たアーサーは、塀の後ろで息を潜めると警戒しながら建物の様子を窺っていた。どうにも人がいる気配はしないが、安穏と訪ねていって良いものかを注意深く吟味する。
マシューの懇願を引き受けた手前もう後には引けないが、アーサーはフランシスとの距離を計りかねていた。債務者と借金取りの関係ではもうないのだから当たり前だ。だからと言って、画家とそのヌードモデル、なんて関係になってたまるものか。アーサーは苦い顔になり、より一層の決心を固めて拳を握り締めた。
「こんなところで何してるの」
「……ッ!?」
嫌なタイミングで背後から降ってきた声に驚き、アーサーは反射的に横へ跳んだ。アーサーの猫のように機敏な動作に、目の前の男……フランシスは目を丸くした直後に噴き出した。
「そんなに意識してくれてるんだ」
「妙な言い回しをするなッ」
威嚇するアーサーとは反対に斜に構えているフランシスは片腕にバケットの入った紙袋を抱えている。出掛けから帰る矢先に鉢合わせするとはつくづく運がない。
「あんなに怒ってたのに来てくれたのにも驚いてるけど……どういう心境の変化?」
「言っておくがお前の頼みを聞きに来たんじゃないからな。俺が、他のヤツの頼みで、仕方なく、だ」
大事な部分は念押ししておくために敢えて強調する。フランシスにはあまり重要な観点ではないらしく、気の無い返事をするに終わった。
「取り敢えず家に入りたいから、お前も着いてきてよ。代わりに鍵開けて」
「は? 何で俺が」
腕塞がってるし、面倒だしとジェスチャーで訴えかけてくるフランシスがうざったく、アーサーの顔がげんなりと鎮む。アーサーよりも歳上なはずのフランシスは、やけに若々しい足取りで歩き出す。
「ふふん、お兄さんの若さの秘訣を知りたそうな顔をしているな」
「してねぇよ」
「それは、床上手になることさ……!」
「去勢してやろうか変態」
益のない会話のドッヂボールを繰り広げながら扉の前に辿り着き、仕方がないのでアーサーは心なしか雑に扉の鍵を外すと大人しく開けてあげた。頭に血が上って蹴破ったこともあるが、ここは菊が管理するアパートメントだ。下手に乱暴し兼ねる。
「そういえば坊ちゃん、お昼まだだろ」
「要らねえし、そのふざけた呼び方もするな」
「相変わらず不健康だねぇ、親御さんが泣くよ?」
アーサーの意見を聞く気が元からないのかフランシスは勝手に話を進め、嘆かわしいとばかりにポーズを取った。
「俺も遅く起きたから朝食と重なってるんだけどね。長い夜の後はさすがに眠い」
「……」
早朝突撃は二度とやるまい。この男が相手だと人生で遭遇したくない場面ナンバーワンにいつかは突き当たりそうだ。
「まぁ、今のは冗談だけど」
「いちいちめんどくせぇなお前!」
からかい含みにアーサーを見るフランシスは優男の顔には似合わない底意地の悪さでけらけらと笑い、それから二人分の目玉焼きを作るために卵をふたつ冷蔵庫から取り出した。何だかんだ、作ってしまえば大人しく食べるのだ、アーサーは。育ちの良さはこんなところで現れる。
「……お前、ここにあるものは何で発表しないんだ」
フランシスのアトリエにあるキャンバスの群れを見回しながら、アーサーは不意に尋ねた。マシューに相談された内容を脳内で思い起こす。その一種異様なまでの未発表作品は見てはいけないものなのかと思っていたが、覆いを捲ってもフランシスが気にすることはなかった。アーサーに審美眼なるものは備わっていないが、彼はフランシスの作品が案外嫌いではない。本人像を見知った今、素直に好きとは言いづらいけれど。
「さぁね」
「気に入らないのか」
「それもあるかも」
美術品に於ける善し悪しなど知らないアーサーでは、作品に視線を遣る事さえせずに調理を続けるフランシスをどう捉えればよいのか判断し兼ねた。芸術家の思考回路を理解しろと言う方が土台無理な話だ。
ふと床に置いてある美術雑誌らしきものが目に入り、そこへ座り込んで手元へ寄せた。現代芸術作品を紹介しているらしいページで大きく取り上げられていたのはまだ歳若い青年で、名を……。
「フェリシアーノ・ヴァルガス」
作業をしている筈のフランシスが写真の中に収められたイタリア人青年の名を口に出した。突然のことに驚き、顔を上げたアーサーと視線を合わせてフランシスがにこりと品良く笑う。
「知り合いなんだ」
ただ親しい者の名前を呼ぶには鋭い物言いに、アーサーの思考が混乱する。その一瞬でフランシスが何かただならぬものを抱えている心地を覚えたのだ。完璧過ぎる微笑は、時に相手へ機械的な印象を残す。
アーサーはそこに触れることはせず、雑誌を閉じると少し悩んで側にある本棚へ並べた。
◯
「……だから、何で着いてくるんだよッ!」
「別に不都合はないだろ、俺が作った野菜を大家さんに届けに行くだけなんだから」
土の香りが濃いビニール袋を提げて歩く男がふたり。ガサガサと音を立てながらも抗議するアーサーにフランシスが最もらしい言い分を語る。菜園の食材だけを引き取りさて帰ろうと踵を返したアーサーだったのだが、さも当然のようにフランシスが後ろを着いてきたのだ。何度も先ほどのような言葉を浴びせるも全くもって効果がなく、荷物があるせいで振り切るために全力疾走も不可能だ。それに、そこまでして逃げてもどうせ菊の家で鉢合わせするのだから無駄な労力を使いたくはない。
「顔を合わせるのは久しぶりかも」
「滞納してるやつがのこのこ遊びに来やがったら、本田だって殺してやりたくなるだろうからな」
「もう返したからいいだろ。いつまでも引っ張ると良い恋愛には巡り会えないぜ」
そう言っておどけて肩を竦めたフランシスは、顔を上げて目に入ったアーサーの表情に気付くと珍しくバツの悪そうな顔をした。
「ごめん。言い過ぎた?」
「別に傷ついてねぇし、分かったような口聞いてるとテメェが痛い目に遭うぞ」
というか、一度は刺されろ。アーサーはフランシスをまた睨め付けると、もう後ろを気にすることなく歩き出す。
本田家の広い庭を抜け、玄関から中に入る。今時珍しい使用人の女性に労うように頭を下げられ、つられてアーサーも会釈をする。その女中の視線は後方のフランシスへ向けられ、見知らぬ男に対する当惑が瞳を翳らせた。空気を読まないフランシスは気前よくウインクなどしてみせ、アーサーは容赦なくその横腹に肘鉄を食らわせた。蹲る伊達男。
「俺の背後に立つからだ」
アクション映画もかくやな台詞を吐き捨て、女中を安心させるため仕方なく事情を説明して野菜の入った袋を手渡し、奥の部屋へと向かう。
「本田、悪いが余計なヤツも着いてき……」
襖をスライドさせ、室内へ踏みいろうとしたアーサーの足が途中で固まる。呼吸さえもやめてしまったアーサーを訝しみ、後ろからフランシスが中を覗き込む。
「これはフランシスさん。お久しぶりです」
「久しぶり、菊……と、君は」
菊とは離れた正面の座席に、明るい金髪をショートカットにしている快活そうな印象の女性が体勢を崩して座っていた。勝気に煌めく青い瞳は、アーサーを真っ直ぐに見つめている。
「あぁ、彼女は……」
「お前」
狼狽しきったアーサーが呻くように声をあげ、公園の鯉のように口を開けては閉めてを何度も繰り返す。
「……どうして」
「どうして? ……どうして、だって」
辛うじて絞り出したアーサーの疑念が彼女の怒りを買ったのか、すっくと立ち上がるとアーサーの目前で仁王立ちをし何の前触れも無くその二の腕を鷲掴みにした。
「やっぱり! あれだけ食べろって言ってたのに痩せてる。ここも、ここもだ!」
そのまま身体検査よろしくアーサーの身体を隈なく触れ、その度にため息を吐いたり床をトントンと足で小刻みに叩いて不満を現す。さすがのフランシスも圧倒され、異様な光景を黙って見守った。
「い、いい加減にしろエミリー! 本田の家だぞ、ここは!」
「知ってるさ、外で会おうとしないからこんな所でチェックする羽目になるのよ!」
ぎゃーすかと言い争いを始める二人の隙間をそっと抜け、フランシスは好々爺が如くお茶を啜っている菊の側に座ると囁き声で尋ねた。
「……あの二人、どういう関係?」
「夫婦ですよ」
「……は?」
唖然とするフランシスの心の機微を感知したのか、菊はさらりと付け足した。
「元、が付きますが」
もと。フランシスは口の中でそれを転がし、複雑そうな表情でアーサーを見た。時折漂わせているくたびれた空気はその所為か。
ふとアーサーは周囲を見渡し、訳もなく息を潜めた。
「……お前、ピーターは」
「もちろん一緒に来てるよ。外で遊んでる」
遠慮の混じる口振りからして、まさか子どもの事だろうか。実はアーサーが元妻帯者の子持ちだった、なんて目の当たりにしている今でも現実味が感じられない。
「それより、彼は誰だい。もしかして君の新しいこいび」
「なわけねぇだろ! 話が跳びすぎだバカッ」
エミリーの言葉を遮ってまで即座に否定し、アーサーは盛大なため息を吐いた。眉間の皺を自身の指で伸ばしながら口元をもごもごと動かす。
「……だから口で話したくなかったんだ」
「手紙だけはやけに紳士的だものね。アーサーは昔から卑屈過ぎるんだよ」
「お前と比べたらな」
側から見れば犬も食わない痴話喧嘩……のように見えるが、この二人は事実既に離婚しているのだ。エミリーの方は引け目を感じている様子は一切ないが、アーサーはやはりどこかぎこちない。
「横槍を入れるようだけど、最近は食べてる方だと思うよ」
今まで静観していたフランシスが口を挟み、エミリーは話の続きを催促するかのようにフランシスをじっと見た。
「……俺ん家で」
「アーサー」
「だから違う!」
アーサーを見つめるコバルトブルーはやけに澄んでいて、フランシスを睨みつけるアーサーの視線よりも彼女の心境の方がフランシスは気になった。
「それはいいね、これからもよろしく! 見てないと直ぐに不健康な生活をするんだから。趣味だって炭錬成だしさ」
「炭じゃねぇ、スコーンだッ」
どうやらアーサーの料理の腕は壊滅的とみた、覚えておこう。
今までも立ちっぱなしだったというのに、アーサーは突如ハッとした表情で時計を確認すると何やら慌て始めた。
「あー……エミリー、お前いつまでここにいるんだ」
「明日までには帰るよ。今日は菊の家に泊まる」
「じゃあ、帰る前に呼べ。見送りはする」
エミリーは怪訝がって眉を僅かに顰め、小首を傾げた。
「これから何処に」
「バイトだよ。時間危ねぇからまた明日な」
「はぁ? バイトって、一体何の……って、ちょっと!」
尋ね終わる前にアーサーは菊に挨拶代わりの目配せを送ると廊下を小走りで駆けていった。エミリーは悔しそうに一度畳の床をドンと足で叩くと、元いた場所に座り直した。
「お茶のお代わりをお持ちしましょうか」
「ありがとう、頼むよ」
しかし彼女はいつまでも不機嫌な顔を浮かべることはなく、気遣う菊に気さくな態度で笑顔を向けた。菊が一時退席してフランシスと部屋に残されると興味津々とばかりに正面に座るフランシスへ身を乗り出した。
「私、エミリー・ジョーンズって言うの。貴方は」
「フランシス・ボヌフォワ。気軽にフランシスお兄さんって呼んでくれてもいいよ」
何だいそれ、とエミリーは笑って夏の陽光を一身に受けたように眩しい金髪を揺らした。闇夜を照らすどころか裂いてしまいそうなのに、そこには母になった女性独特の芯の通った柔らかさも潜んでいて、見事にデタラメだった。
「で、アーサーとはどう知り合ったんだい」
童顔の割に豊満な胸を寄せ、そんなことには一切気を払っていないのかエミリーはやけにアーサーとフランシスの内情を知りたがる。
「実は菊から聞いてるって顔だよ、エミリー……で、いいかな。君が知りたいのは、俺とアイツが現在どういう関係かってことでしょ」
「その通りだよ。よく分かったね」
感心したのかエミリーは目を丸くし、頷く。フランシスは話を続けた。
「下世話な話だけど、どうしてエミリーはアイツと離婚したんだ。その様子だとまだ好きなんだろ。けど、別れを告げたのはアーサーじゃない」
「名推理だ、何でそこまで分かるんだい」
エミリーの視線に鋭いものが混ざり、普段飄々としているフランシスでも肌を刺すような痛みを覚える。
「会話を聞いていたんだから大体分かるよ。一応、観察眼は鍛えてきた方だからね」
「それにしたって良く見てるよ。率直に言って、貴方はアーサーのことをどう思ってるの」
思わせぶりに曖昧な微笑を湛え、フランシスは卓上に肩肘を乗せて頬杖をついた。
「……君は、俺にアイツが好きって言って欲しいのかな」
フランシスの疑念は、そこだった。エミリーはまだアーサーのことを憎からず想っているのは先ほどの心配の仕方からも窺える。だというのに元夫と他人の恋路を応援しようとするこの姿勢はなんだろう。
「あれ、そうじゃないの?」
「物事には順序ってものがある」
「ふぅん、意外に奥手なんだ」
予想が外れたとばかりに鼻を鳴らすエミリーに、フランシスが補足を加える。
「まぁ、俺もあんまり順番を待つタイプではないね。けど、こういうのは駆け引きがあるから面白いのさ」
フランシス自身、アーサーとの間にそんな奥ゆかしい感情が芽生えるのかは疑問だが、愛の話なら得意分野だ。恋愛を愉しむタイプではないのか、エミリーの反応はあまり芳しいものではなかった。
「分からないな。コトは単純に、素直にぶつけるのが一番だよ」
「……情熱的だね。それで、アーサーも?」
「そう。プロポーズしたのさ」
今時女性からのプロポーズは珍しくもないが、フランシスの身体が斜めに傾いだ。肩頬を支えていた支柱が崩れたのだ。見計らったかのようなタイミングで襖が開かれ、菊が戻ってくる。
「これは……どういう状況なんでしょう」
「私がアーサーにプロポーズしたって言ったところ」
なるほど、と菊は頷き、茶菓子と湯呑みを乗せたお盆を卓上に置く。姿勢良く座布団の上に正座し直し、相変わらず読みにくい表情で口を開いた。
「続けてどうぞ」
「菊は聞いてるんだ?」
「ええ。彼女の家とはそれなりに交流がありましたから」
エミリーの恋愛相談を請け負っていたらしく、二人からは気心が知れている親戚同士のような空気が感じ取れた。アーサーも菊にはよく懐いていたが、出会ったのはまだ最近の方らしい。
「アーサーの話なら遊びに行く度に菊にしてたからね。……ねぇ、やっぱり菊ならアーサーを口説けると思うんだけど」
「私と彼では年が離れ過ぎていますから」
どうやらエミリーはフランシスだけでなく、菊にも同様の期待を寄せているようだった。恐らく、アーサーを幸せにする存在にたるかどうかを。
「それに……彼はまだ私に遠慮しているところがあります。適任ではないかと」
「ううん、でも、菊はアーサーが好きなんだろう」
「気持ち的には、微笑ましく見守る保護者といいますか……好きとは言っても、親愛の方ですよ」
エミリーの言葉の銃弾を潜り抜け、菊は少し困った顔で笑んだ。もう慣れたやり取りなのだろう。
「弟さんには、同じ質問はなさいませんよね」
「あー、あれはダメだよ。私と丸っきりタイプが同じだから。後、悔しいから嫌だ」
フランシスのまだ知らない人物をエミリーは年頃の娘のような理由ですげなく却下し、お茶をゴクゴクと飲んだ。いつまでも少女とばかりにどの所作も若々しい。実際、まだ若いのだろうけれど。
「こんな所で俺の噂をしているのは誰だい」
不意に、聞き覚えのない声と共に襖障子の向こう側から人影が現れた。隣には小さな影も見える。新たな登場人物に数度瞬きをしたフランシスの前で、その仕切りは開かれた。
2.
カフェでのウェイターの仕事を終え、ケーキの入った箱を注意深く守りながら菊の家に寄る。もう夜遅いが、渡すなら今日だと思ってこっそり前置きの電話はしていた。常に誰かしらがいる客室の灯りはまだ点いていて、呆れながらも女中に箱を受け渡した。直ぐに引き返そうとしたアーサーを見兼ねてか女中に上がっていかないのかという類の質問を控えめにされる。アーサーは首を横に振り、また直ぐに元来た道へ踵を返した。
「夕飯くらい頼めばいいのに」
唐突に後ろから声がして振り返ると、まだいたらしいフランシスの呆れ顔があった。思わず渋い表情になるアーサーを知ってか知らずかフランシスは靴を履くと近寄ってきた。
「寄るな変態」
「はいはい変態で結構ケッコー」
本気で嫌そうに後退るアーサーへ軽口を叩き、右手に持っていた紙袋を突き出す。首を傾げるアーサーの腕を掴んで抱えさせた。
「何だよこれ」
「あちらのお客様からテイクアウトです」
フランシスは無駄に優雅な手つきで手首を回し、いつの間にか縁側に出ていた菊を指し示した。柱に凭れかかる菊に悠然と微笑まれ、アーサーは思わず頬を赤くした。挨拶もしないで帰ろうとしたことが急に子ども臭く思えてきたのだ。
「まぁ、作ったのは俺だけど」
「人の家でも陣取るのかよ」
「お礼に腕を振る舞っただけさ」
飄々と語るフランシスの横顔をアーサーは複雑な気分で見上げる。少しだけ、そう、ほんの少しだけ目線が上だから仕方がない。
「コックにでも転職する気か」
ここまで歩いてきて夜闇に慣れたアーサーには、フランシスの表情は意外にしっかりと見て取れた。その、得体の知れない茫洋とした表情。目の前に確かに存在するのに、本心だけは透けて見えない。
「それも、いいかもね」
だから、それが冗談なのか、そうでないのかもアーサーには読み取れなかった。
◯
次の日、連絡通りアーサーは駅前でエミリーとピーターに合流した。ピーターはアーサーを見るなり一目散に駆けて、転びかけたがアーサーがそれを支え、直後に頭をぽかぽかと叩かれた。
「お礼が先だろうが!」
全く痛くも痒くもないのだが、助けた我が子に拒絶されれば心に傷を負う。ピーターの小さな手首を恐々と掴まえ、その場に立たせる。
「昨日なんで帰りやがったですか!」
「仕事があったんだって……なんだ、それを怒ってんのか」
さっきとは違う意味で心を痛めるアーサーにピーターはまだ怒り心頭だ。心持ち泣きそうにも映る。
「僕、もう帰るですよ」
「うん? そうだな」
「いつになったら遊べるですか」
ぐすんと鼻を啜るピーターに慌ててハンカチを当てがう。顔の特徴はよく似ているが、アーサーとは違ってさらさらな蜜色の金髪をぎこちなく撫でる。
「俺からは行ってやれないんだ……仕事もあるからな。次は、ちゃんと時間を作るからその時に来てくれるか」
納得がいかないのか拗ねているピーターの側に、やってきたエミリーが屈み込んで何やら耳打ちした。するとピーターはおずおずと小さな腕を広げ、アーサーに抱きついた。
「約束するですよっ」
「あ、あぁ、約束する」
回りきらない手のひらから伝わる温度に瞠目しながら返事をする。その光景を眺めるエミリーの表情は正しく母親の顔持ちだった。
「アーサー。ひとりで無茶を続けるようなら私にも考えがあるから」
「無茶なんかしてねぇよ」
それから一変して、意味深にそう告げて不敵に口角を上げる元妻のオーラに一瞬怯む。エミリーは強い。精神的にも、肉体的にもだ。
「アーサーの意見なんか知らないわ。私がそう感じたら、それが事実になるのさ」
「横暴にも程があるだろ!」
ハイヒールを高らかに踏み鳴らし、アーサーが追求する手立てを奪うようにピーターの手を取ると駆け足で改札の方へ消えていく。履物に縛られない身軽さは大したものである。
最後にアーサーを振り返って揶揄い混じりにぺろりと舌を出すと、後はもう振り返ることなく進んでいった。アーサーはため息を吐きつつ変わらないエミリーの態度に安心してから習慣的に菊の家へ向かう。
最近は毎日が嵐のようだと独りごちつつ、目を瞑っていても歩けるに違いない廊下を進み、襖を開けた。何度開閉しようがガタつかないのだから、丈夫な襖障子だとつい関心する。
しかし、その襖を開けた先には大抵びっくり箱が口を開けて待っているのだということをアーサーはこの時忘れていた。
「ヒーローを待たせるなんて、相変わらず非常識なんだぞ」
唇を尖らせ抗議する、よく通る声。目がいくのは一房だけぴょんと跳ねた金髪に、何故だか快活そうな印象を与える眼鏡。コバルトブルーの瞳は、彼女と瓜二つの様相で細められた。
「久しぶりだね、アーサー」
その、エミリーそっくりの好青年然とした男を前に、アーサーはついに怒鳴る。
「……なんでお前がここにいるんだ、アルフレッド!」
「酷いじゃないか、挨拶をした幼馴染に掛ける言葉がそれかい」
「まさか……」
顔を若干青くして、ハッとなってアーサーはエミリーの発言を思い出していた。まさか、考えって。
「監視役……ってことか……?」
肯定も否定もせず、アルフレッドと呼ばれた男は晴れやかに笑った。
「これからまたよろしく、アーサー!」
「誰がよろしくするか、バカぁッッ!」
屋敷全体を震わせる叫び声を上げ、アーサーがずるずるとその場にへたり込む。あまりのことに貧血を起こしたのだ。風邪を引いたらハンバーガーを額に乗せてくるような相手に監視を任せてどうするというのか。長い間共にいたはずのエミリーの真意が掴めず、アーサーは途方に暮れるのだった。
next……