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1.

 

「ほな、邪魔するでー」

「ヒィイッッ!?」

平日の昼下がり、それも散歩日和のぽかぽか陽気の只中で、一見穏やかな挨拶をした後にアパートのドアを蹴破る尋常じゃない轟音が外廊下中に響いた。男のツーピースの黒スーツを崩した服装にサングラスという出で立ちはどう見ても堅気ではなく、湿っぽい部屋の片隅で家主はガタガタと身体を震え上がらせる。

「堪忍なぁ、こっちも仕事なんよ」

サングラスを額に押し上げて覗いた顔は意外にも年若く、その目鼻立ちのくっきりとした外国人の青年は何故だかおかしな関西弁で家主に話す。先ほどの荒々しい登場の仕方とはまるで別人な調子にすかさず男は青年へ向かって土下座をした。

「た、頼むっ。来月までには必ず払うから、ここはひとつ見逃してくれ……!」

「ううん、そこまで言うなら待ってあげたくもなるんやけど……」

「本当か!?」

顔を上げ、期待に胸を弾ませた男が見たものは、太陽のような笑顔を浮かべた目の前の青年……と、その背後から現れた眼光が刃物のように鋭い男だった。

「せやけど、ほんまにごめんな。それを許せへん頭のカッタい太眉がここにおるんよ」

ヌッと腕が伸び、悲鳴をあげた頃には既に胸倉を掴まれていた。細身の腕のどこにそんな力があるのか地面から足が離れる。

「来月まで待てなんてよく言えたなぁ……おい、じゃあこの部屋の惨状はどう説明するんだ、あ?」

革靴のまま上がり込んだ二人の足元には、踏み場がないほどビールの空き缶やカップ麺の空容器が転がっていてとてもではないがお金が返せる人間のそれではない。家主の顔色は酸欠と恐怖とで青を越えて白色に染まり出し、慌ててパクパクと金魚のように言葉を絞り出した。

「わ、分かった、払う! 払うから……!」

死、と言いかけたところで気道を締めていた手が離れ、勢いよく尻餅をつく。咳き込む男の上に領収書がヒラヒラと落ちてくる。

「確かに聞いたぞ。俺は嘘が嫌いなんだ」

行動には気をつけろよ。ゾッとするようなおどろおどろしい声で最後通告を言い渡し、嵐のようだった金髪の青年は部屋を後にする。関西弁の男もそれに続き、一度だけ振り返って陽気に手を振ると帰って行った。壊されたドアから、虚しくも風がすり抜けていく。

 

 

「嘘が嫌いなんて初耳やで。二枚舌のぶと眉毛サマ?」

「うるせぇ、人を悪役にしやがってこの脳みそトマト野郎」

「ほんまに? 褒めてもらえて光栄やわぁ」

暴言を交わし、互いに蹴り合いながら通りを進む影ふたつ。言わずもがな先ほどの二人組である。如何にもチンピラといった出で立ちに人々はぎこちなく視線を外し、距離を図って再び歩き出す始末だ。

「大体春先にその格好て何なん? 暑苦しゅうて見てられへんわ」

スリーピーススーツをキッチリと着込み、先ほどから眉毛眉毛とバカにされている青年の名はアーサー・カークランドという。スーツはアーサーにとても良く似合っているのだが胸元に光るサングラスがヤのつくご職業な雰囲気をこれでもかと醸し出している。

「お前と違って俺は紳士なんだよ」

「へーそうなん。よう言えたなぁエセ紳士」

「エセはお前の代名詞だろエセ関西人」

小競り合いは段々とヒートアップしていき、とある屋敷の前まで着くとアーサーはおもむろに拳を振り上げた。それはやはり相手も同じで、互いの頬に両者の拳がぶつかろうとする寸前でその隙間に扇子が割り込む。

「こらこら、ケンカは止しなさい」

「ほ、本田」

「キク」

ぎくりと動きを止めて二人は黒髪の日本男子の方へ顔を上げる。実年齢よりもかなり若い容姿をしている一見青年の本田菊という男は、纏っている雰囲気から言えば老成した翁にも近しい。人外じみた気配はあまりにも堂に入った和服の着こなしの所為でもあった。

「二人とも本日のお勤めご苦労様です。さぁ、中でお茶にするとしましょうか。首尾はどうです?」

「上々だ。……けどな本田、コイツと組むのもそろそろ限界なんだが」

立派に整えられた日本庭園の間を抜けながらアーサーは歯切れ悪くそう溢す。後ろを歩くアントーニョを親指で指し示しながらそちらに振り返り、すかさず睨み合う。

「相性が悪いとは思えませんね。きっちり回収してきてくれるではありませんか」

「それは俺が頑張ってるからだ!」

首を傾げる菊に、思わずといった程でアーサーが声を上げる。菊は口元にそっと微笑を浮かべ、内側から開かれた襖の先へ足を踏み入れた。

「込み入った話は落ち着いてからと致しましょう。お二人とも自由な席へどうぞ」

 

 

本田家の歴史は長く、周辺一帯の住民で知らない人はいないかつての大地主の家柄で、江戸時代前ほどの力は無いものの、今でも山の所有権を持った所謂大金持ちである。ちなみに現当主である菊本人の年齢は謎に隠されたままだ。

これは菊の側面の一つだが、彼は昔で言う「高利貸し」をしている。お金に困っている相手に担保無しで貸し付けて後に返金して貰うシステムで、効率良く元手を回収するために二人を雇っているというわけなのだ。つまりは取立屋を想起させる仕事着もまた菊の趣味だ。

「……それで、アーサーさんはアントーニョさんとのコンビを解消したいと」

「コンビってなんや芸人みたいやんなぁ。こんな眉毛とは嫌やけど」

「お前は黙ってろ。……本田には悪いが、コイツと組むのはコストが高すぎるんだよ」

コストとは、と菊が首を傾げる。アーサーは渋い顔のまま話を続けた。

「押し入る度にドアは壊すわ脅しは俺に押し付けるわでとにかくやってらんねぇ」

「連携プレーも分からへんの」

「破壊と脅迫の最悪コンボだろ!」

ついには立ち上がってアントーニョを怒鳴りつけるアーサーの表情には苛立ちが浮かんでいる。菊は落ち着きはらった様子で茶を啜り、そんなアーサーを見上げた。

「分かりました。では、お試し期間を設けましょう」

「お、お試し……?」

「暫くピンで仕事してもらいます」

ピンで。瞳を輝かせるアントーニョとは対照的に、アーサーは拗ねた表情になって抗議した。

「コイツが喜ぶ言い回しにするなよ」

「実にすみません。しかしこれもまた日本の誇れる文化なので、今度一緒に大阪、行きましょうね」

う、とアーサーが言葉を詰まらせる。それから満更でも無さげにそっぽを向くと、勢いの失ったアーサーは何やらもごもご話した。

「まぁ、お前がどうしてもって……」

「チョロ眉毛は置いといて、これからどうすればええの?」

煮え切らないアーサーを遮って、卓上から前のめりになってアントーニョが尋ねた。

「そうですね、ひとまず一対一で相手をして貰うことになりますから……少し厄介な方をアーサーさんに頼んでもいいでしょうか」

菊に視線を投げかけられ、期待されていると受け取ったアーサーはパッと顔を明るくする。次はアーサーがアントーニョを押しのけ、力強く頷いた。

「もちろんだ」

「良かった、それなら話は早いです。場所は私が大家をしているアパートメントでして、その相手の名前は……」

 

 

次の日の早朝、通りを歩くアーサーの表情には険しいものが浮かんでいた。菊に頼まれた担当の人物は男で、面識はない。ない、のだが。

「フランシス・ボヌフォワ……」

まるで呪詛のようにおどろおどろしい低音でアーサーが呟く。アーサーは、フランシスを知っていた。思考の端にいくつかの記憶がチラつく。雨宿りの美術館、人工の照明に照らされた、一枚の大きなキャンバス。

それから。

「……あ?」

「あ」

不意に、頭上から紅い何かが降ってきた。視界を覆うほどの、芳しい紅、紅、紅。それがどうやら薔薇の花びらであると理解した頃には、籠から一気に溢したかのようにぼろぼろと降り注いだ花びらが髪の毛や肩にまとわりついていた。二階のアパートメントの窓から呆けてその光景を眺めていた犯人らしき男は慌てて笑みを取り繕う。

「ボ、ボンジュール、ムッシュ。なかなか今日は良い天気だろう」

「……テメェがフランシスか」

「うん? そうだけど」

巧い笑顔と挨拶でこの状況を誤魔化そうとした金髪髭面の軟派男を睨め付け、アーサーは階段の方へ走り出した。二階は全てフランシスの部屋になっているため入り口に迷う必要も無く、適当に扉を開ける。まだ窓の方に凭れていた男はゆったりと顔を上げ、如何にも愉しそうにアーサーと視線を交えた。

「借金、返しに来てもらったぞ」

「これはまた熱烈な挨拶だね。誰かと思えば随分可愛らしい眉毛の取立屋だこと」

一歩も怯むことなく挑発するばかりか、コンプレックスを指摘されてアーサーは頬を紅潮させて怒鳴った。

「……眉毛は関係ねぇだろ!」

「じゃあ薔薇の精?」

「これはテメェの所為じゃねえか!」

動く度にひらひらと薔薇の花びらが舞い、床に音もなく落ちる。鬱陶しくなってきて肩口を払い出したアーサーに何故かフランシスが段々近寄ってきて、それに伴いアーサーはじりじりと後退する。

「な、なんだよ……荒らされたくなきゃさっさと家賃を出しやがれ」

「ううん、それが今お金なくってさ」

家賃……というのも、フランシスが狭いと抜かして壁をぶち抜いたことに応じてその額も倍に膨れ上がっており、それをフランシスは長い間滞納しているのだ。噓つけ、とアーサーは心中毒吐く。現代アートのトップとまで呼ばれているあのフランシスに、お金がない筈がない。

「いやぁ、最近は作品も出してないし展覧会も開かないから文無しなんだ」

「……ハァ? じゃあ、ここにあるキャンバスの群れは何なんだよ」

「全部未発表ってこと」

有無を言わせない青紫の瞳に魅入られ、二の句が継げずに黙り込む。それから壁に背がついたと思った時には頬にフランシスの柔らかなブロンドの一房が触れていた。

「隙あり」

「……ッ!」

反射的に口元を手のひらで覆うと、そこにフランシスの唇が寄せられる。アーサーの戸惑いに満ちた翡翠色を笑い含みに見つめ、ゆっくり唇を震わせる。

「残念」

アーサーは勢いよく手を払うとフランシスの胸板を押しのけ、ついでに蹴った。僅かに呻いて横腹を押さえたフランシスはパッと顔を上げる。

「痛い! 別に蹴ることねぇだろ!」

「あ!? テメェが言えたことかよ!」

さっきまでの雰囲気とは打って変わってごねるフランシスに追撃を食らわせようとアーサーが構える。

「それはお前が、あんな顔を……あれ、そういえば名前聞いてないな……何って呼べばいい?」

「……刺されろ!」

アーサーはわなわなと身体を怒りで震わせ、名を答えることなく扉から外に出た。最悪だ、ただでさえ滞納者な上に知り合ってもいない相手を襲おうとする変態だなんて。

敵前逃亡は初めてのことだった。避けようのない嵐の前触れを感じて辟易とした気分になる。……しかし残念ながら、この状況を引き起こしたのは菊の話を最後まで聞かずに仕事を請け負った自分自身に他ならない。アーサーは深く項垂れ、サングラスを掛ける。怒りが引いてくれないのか顔がまだ熱いのだ。

……ひとまず、あの男については分からないことが多すぎる。情報収集に入るべく、アーサーはとある顔見知りに手短なメールを送信した。

「……って、速いな」

すると即返信が来て、次に携帯が震える。迷うことなく電話に出ると、間延びした繊細な声が耳に伝わった。

「お久しぶりです、アーサーさん。メール、読みましたよ。……今から会ってお話できますか?」

「ん、良かったら頼む。仕事忙しいんだろ? ありがとな、マシュー」

丁度本田さんのお家に向かっているところでしたから、と朗らかな返答が成され、なるほどと合点がいく。菊は多趣味で、美術鑑賞も嗜んでいた。それがどうしてマシューに繋がるのかといえば、彼の職はキュレーターで、美術館や展覧会に毎回多額の寄付を贈る菊は大事な客人であるからだ。そして、聞くところによると画家であるフランシスとも関わりがあるらしい。

「出来ればお前に頼るのは最終手段にしようと思ってたんだが、予想以上に厄介でな」

「分かりますよ、僕だって「この野郎」と思う場面が何度かありましたから」

マシューは馴染みのある謂わば身内にも近しい存在で、だからこそアーサーは彼が如何に気性の優しい青年であるかを心得ていた。そんなマシューを「この野郎」とまで言わしめるとは、今回の相手は筋金入りの変人……もとい変態と見た。

じゃあまた後で、と電話を切り上げて幾らかスッキリとした心持ちで歩き出す。

 

大丈夫、俺ならきっとうまくやれる。

2.

 

……別れよう。

そう切り出した声は、本当に彼女のものかと疑うくらいに落ち着いていた。ただいつもと変わらないのは、彼女がひたとアーサーを見据えて告げたことだ。絶対に目を逸らしてやるものかと心に誓ってでもいるのか、その瞳の海はさざ波さえたてない。七月初旬、まだ梅雨の続く蒸し暑い日。あの夜、彼女の指に光るプラチナは彼女の重ねた手のひらの下で所在なさげに息を潜めていた。

……今までありがとう。

アーサーは、テーブルの対面で深々と頭を下げた。カーテンが塩の含んだ夜風で揺れる。彼女は微笑んで、私は、と囁いた。私は、充分幸せだったから。

 

 

今日こそは分捕ってやる。もう何度目か知れない決意を胸に、アーサーは息巻いてフランシスの住むアパートへと訪れた。何らかの形でフランシスの手管に巻かれ続けてかれこれ一週間経っている。これはアーサーにとって屈辱でしかなく、そろそろ清算しなければ気が済まない。元々アーサーは気が短い性分なのだ。時刻は早朝、寝起きの隙を突けばあの男とて一溜まりもあるまい。菊から預かっているアパートのマスターキーを使い、家中へ押し入る。寝室らしき部屋を見つけ出し、アーサーは勢いよく開け放った。

さぁ、年貢の納め時だ……!

 

「……えっと……ボンジュール、坊ちゃん。夜這いにでもきたの?」

と言っても、もう朝だけど。

扉を開いたところで、そこにいたのはもう既に目を覚ましてベッドから起き上がりかけている全裸のフランシスだった。アテが外れたアーサーはその場で動きを静止し、理不尽な状況にキレた。

「なんで起きてるんだテメェッッ」

「え、朝食作るからだけど」

全裸のまま腰に手を当て、優雅なポーズでフランシスは不敵に笑う。

「でもまぁ、お前が一緒に寝たいっていうなら……」

「殺すぞ変態」

キッチンから包丁を投げてやろうかと殺意に塗れながら寝室の扉を閉める。

アーサーは短気だが、割と常識的な男だ。リビングのやたら質の高いソファに陣取ってフランシスが現れるのを待った。

「御機嫌ようアート! 健やかな朝だ、待たせたお詫びにお兄さんのトレビアンな朝食をご馳走してあげる」

「気安く呼ぶな! カークランドさんだろうが」

「これは失礼、女王陛下」

すかさず蹴り上げてきたアーサーから逃れ、フランシスは捉えどころの無いしなやかな動きでキッチンに退散する。

「アート」というのはアーサーの愛称で、しかしそう呼ばれた試しは今までで多くない。何故ならアーサーは極端に同世代の友達が少なかったのだ。フランシス曰く、些か直接的だが愛称にすると芸術を意味する綴りでいたく気に入った、らしい。仏語では発音は「アール」になるのだが、「それはそれ」だとか何とか。

「大体、飯より金を寄越せよ。払えねぇっつーのにその材料はどうやって手に入れたんだ」

アーサーの鋭い突き刺すような視線さえ相手にせず、早速調理に取り掛かりながらフランシスは言葉を返した。

「家庭菜園だよ。無いなら作れ、ってね」

「はぁ? どこにあんだよ、そんなもん」

「屋上」

さらりと応え、手際良く野菜を千切ってサラダを作る。屋上まで借りてることに呆れ、思わず閉口する。

「何か勘違いしてるでしょ。屋上の菜園は元々あって、大家さんの代わりに今は俺が育ててるの。お陰様で幾らか目を瞑ってもらってるってわけ」

フランシスの発言にアーサーは途端顔に動揺を浮かべた。その揺らぎは童顔も相まって迷い子のようだ。

「な……っ、それなら、俺は何のために」

「さぁ。彼にも我慢の限度ってものがあるんじゃない?」

「……そこまで分かってて滞納するな!」

キッチンにまで乗り込もうとしたアーサーの眼前にサラダの入ったボウルが差し出される。つい受け取るとフランシスはによによと笑んでアーサーを見た。

「お前、変なとこ育ちがいいよね」

そう言ってパンを切り分け始めたフランシスの手元を憮然と見下ろし、アーサーはハッとした顔になってボウルを片腕に抱えると空いたもう片方の手でフランシスの頬をつねった。

「痛ッ! なに!?」

「ちゃっかりパンなんて出してんじゃねぇよ、さすがにこれは買ってるだろ!」

「パンくらい買わせろよ!主食だろ!?」

「知るかよクソヒゲ!」

ギャーギャー騒ぎながらも食に対して譲る気はないのかフランシスは用意を進め、根性でテーブルに並べた。小分けにされたバケットにトマトサラダ、夕飯の残りらしきコンソメスープをきっちり二人分用意しており、テーブルの端にはジャムの瓶が置かれている。

「ほらほら、冷める前に食べないと」

「また、お前のペースに……また……」

「いいから食え。そんな不健康そうだと野良猫みたいで放っておけないんだよな」

うんうん、と勝手に一人で頷いているフランシスを憎々しげに見遣り、付き合っていられないとばかりに踵を返す。

「ハッ、他人を気遣う余裕があるとは随分ヒトサマを舐めてるみてぇだな。お前はそのまま腐ってろよ」

「随分なのはそっちだろ」

意外にも強い力で腕を掴まれ、無理矢理振り向かされる。怒り心頭に達しているアーサーを鋭さのない表情で見下ろし、ため息を吐く。

「財布は軽くても心は広く、ってよく言うでしょ。朝食くらい付き合えよ」

「それを取立屋に求めてるのが間違ってんだよ! 頭おかしいんじゃねえか」

「芸術家が正気でどうしろと」

アーサーの正論を狂気という凶器で殴り、席に座らされる。スプーンで口を叩かれて鬱陶しさに奪い取った。

    「bon-appetit(召し上がれ)」

滑らかな仏語を耳元で囁かれ、手の甲で思い切り真横にある鼻を殴った。物理的攻撃は効いたらしく、大人しく正面席に戻るフランシス。

「お前のこと、俺結構嫌いかも」

「初めて気が合ったな」

「仲良くなれそう?」

「未来永劫無理じゃないか」

 

 

自由気ままにシャワールームへ向かったフランシスを苦々しげに見送った後、アーサーは寒気がするくらい洒落た景観の部屋中に振込先の書かれた請求書を容赦なくお札の如くベタベタと貼り付けてひとまずは満足し、アパートから外へ出た。今後の予定にはアルバイトが入っていて急ぎ足で駅へ向かう。全く、朝食に付き合わされた所為で予定が狂ってしまった。手作りの朝食を食べたのはいつ振りだろうか。思い返そうとして、やめた。どうしても感傷が付き纏ってしまうから。

「にしても、気が重い……」

今日のバイトは遊園地での風船配りだ。察しの通り、衣装は着ぐるみである。訳あって手当たり次第にバイトの面接を受けていた時期があり、そんな中で仕事内容をよく確認していなかったのはアーサーの落ち度だ。子どもは嫌いではないが、周囲がよく見えない状況で神経を張り詰めなければならないからかなりの重労働なのだ。それに、巨大なうさぎの着ぐるみに包まれていると自分がやけにちっぽけに感じられて気持ちが萎む。アーサーを内包する狭く息苦しい空間と、外側から聞こえてくる浮ついたメロディーとがバラバラでおかしい。

それでもまだ、働いている方がマシだと感じる。自身の本質にもがき苦しむくらいなら、肉体的な息苦しさなど取るに足らない問題だった。

 

 

夕方になり、バイトを終えて携帯を手に取ろうとポケットを弄って、そこに何もないことに気がついた。一瞬身を強張らせ、何処に置いてきたのか今日一日をざっと振り返る。恐らく、まだ自宅の充電コードに繋がれたままだ。朝から打倒フランシスと銘打っていた所為でどうやら携帯の存在を忘れてしまっていたようだ。アーサーは渋い顔になり、横道にポツネンと在った草木の生い茂る公園に足を踏み入れて寂れた電話ボックスまで赴いた。小銭を入れ、指が覚えている連絡先を公衆電話に入力する。

「はい! お前は誰ですか?」

「……ピーター。それ、マナー違反だぞ」

即電話に応えた声はまだ幼く、それでいてハキハキと話す。言葉遣いは悪いが芯の強い子だ。

「知ってるですよ! コッチに掛けてくる人は、アーサーの野郎とギョウシャだけです」

「業者の人が出たらどうするんだよ!」

コッチ、というのは固定電話のことだ。つい横槍を入れ、ハッとなって気を落ち着ける。確かに少年……ピーターと話す為に掛けたのだが、コントをしている場合ではなかった。

「えっと……そっちは今、どうだ? 困ったこととか……」

「もし何かあっても、ママがどうにかしてくれるですよ! お家におっきい虫が出てきた時も一発で倒したです」

「……一発って、拳銃じゃねぇよな」

脳裏にとある女性の姿を思い起こし、アーサーは恐々と呟く。日本には銃刀法違反というものがあるが、あの娘なら一つくらい隠し持っていても不思議ではない。

「でも、寝るときに苦しくて困ることはあるですよ。怖いのがキライなのにママがホラー映画を観るのはどうしてですか?」

「そんなの、俺が聞きたい」

学生時代のことを思い出す。姉弟揃ってホラー映画が苦手な癖に、アーサーを真ん中にしてしがみつきながら画面に釘付けだった年下の幼馴染二人。怖いなら観なければいいのにと何度思ったことか。

「アーサー」

「どうした」

「ママとも話しやがれです」

「……話してるよ」

少しの間があって、それから「嘘つき」と聞こえてぎくりとする。

「アーサーは大バカ野郎ですっ!」

「あっ、おい!」

通話が途絶え、受話器からは終了を意味する一定の音が流れてくるのみだ。アーサーは頭を掻きながら受話器を置き、電話ボックスから外に出る。半分は嘘じゃないんだけどな、と独りごちた。今時どうかと思われるかもしれないが、文通ならしているのだ。メールよりも、文字の方が幾らか温かみがある気がして。

 

アーサーには妻と、それと子どもがいた。既に離婚しており、親権は妻の方にいっている。そこに不満はない。妻の名前はエミリー、子の名前をピーターと言う。結婚した頃、まだアーサーも、エミリーも若かった。幼少期からお互いの家に縁があり、エミリーの双子の弟とその従兄弟であるマシューを含む四人でよく遊んでいた。それだからか二人の結婚に口を挟むものは誰もおらず、「妹のように可愛がっていたのに恋仲に発展するとは意外だ」と周囲に驚かれたくらいだ。しかし、それもあながち間違いではなくアーサーがエミリーへ向ける感情は恐らく恋ではなかった。恋ではなかったから、今こうして一緒にいない。

アーサーに求婚したのはエミリーだったが、別れを切り出したのもまたエミリーだった。けれどそれも全て、アーサーの為だ。破天荒な性格だったが、誰よりもアーサーを愛してくれていた。

帰り道、銀行で養育費を上乗せして支払ってから自宅へ向かう。普段の生活費と養育費は菊のところでの仕事で充分足りていたが、他で稼いだお金の使い道はアーサーにはないためほぼ振り込みにあてていた。お金はあればあるだけ損はしないだろう。

 

アーサーには秘密があった。エミリーはそれを知っていてアーサーと結婚し、やがて子どもを産んだ。幸せにしよう。アーサーは、そう誓っていたはずだったのだ。自分の痛みからは目を逸らして、先にある家族の未来を願って。

「それだと、私は君を許せない」

エミリーの眩しい瞳の青が甦る。

どうか、幸せに。私は、もう充分……。

さざ波と雨の音は少し似ている。人の、湿った部分から沁みてくる音だ。

妻と息子は海の見える港町で暮らしている。

夏が、よく似合う母子だ。

そこに行けなかったことが、まだアーサーを苛み続けている。

 

 

コンビニ弁当と缶ビールで夕飯を済ませ、無事ベッドで留守番していた携帯を開くとメールが届いていた。

「……あの野郎……」

差出人は菊で、フランシスが未だ未納である旨が綴られていた。アーサーは菊の困った顔を勝手に想像し、張本人たるフランシスの懲りる気のない顔を思い出した。沸々と怒りが募り、ハンガーに掛けてある上着は羽織らずに家の鍵と財布、それから携帯だけをスラックスのポケットに突っ込んでアーサーはマンションを飛び出し、フランシスへの苛つきをバネにタクシーに乗り込む。

着いた頃にはもう夜遅かったが、アントーニョよろしくドアを思い切り蹴って開けた。

「クソヒゲェ!!」

今殺す、と次いで怒鳴って、目当ての姿を探し当てたところで勢いを止めた。

フランシスは、キャンバスの前に立っていた。飄々としたいつもの調子とは異なり、静謐とも言い換えられるほど音のない無表情で画板と向き合っている。と、不意にパレットと筆を台の上に置き、ため息を吐いて椅子に座った。それからようやくアーサーの存在に気がついたのか、他所向けの表情でにこりと笑った。

「今日はよく会うな、眉毛ちゃん」

「……テメェの所為だろうがッ!」

壁中に貼られたままの紙切れを指差す。フランシスは合点がいったかのように頷き、「そういえばそうだった」と呟いた。血管が千切れそうだ。

「テメェの都合で菊が迷惑被ってんだよ。貧乏だとか言い訳してねぇでいいから金を出せ!」

「分かったって。ハイ、どうぞ」

キャビネットの一段目を何やら探り、フランシスはアーサーの手のひらに小切手を握らせた。

「は……? お前、これ」

「そういえば有ったなって。お使いが済んで良かったな、アート?」

いちいち気に障る言い回しをしてくるフランシスを強く睨む。まぁいい、これでいけ好かない男との関係も終わりだと視線を逸らした。

「あぁ……それと、頼みがあるんだ」

歌うような声が、またアーサーの瞳を自身へと縫い付ける。恐ろしいほどに計算され尽くした、完璧な微笑。

「それ、結構な額が入っててさ。滞納分以上のゼロが後ろについてるでしょ? お釣りは要らないから、その代わりにお前、ちょっと手伝えよ」

「話次第だな」

フランシスからの頼みともあって慎重に身構えるアーサーの肩を正面からぽんと叩き、フランシスはこの日一番のキメ顔で告げた。

 

「俺の、ヌードモデルになってくれ」

 

次の瞬間、フランシスの頬に右ストレートがキマった。

 

「くたばれッッ!!」

 

……それからもアーサーの受難は、ここで終わるどころか思わぬ方向へ転がっていくことになる。




next​……

NANGOKUSHIKI

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